131 浄光寺を信仰した井岡氏

浄光寺宮殿 宮殿左側面 喚鐘

井岡氏が寄進した浄光寺宮殿・良忍厨子・法明厨子と釣り灯籠
右は、宮殿の明和元年銘と明和6年の喚鐘(新堂3丁目・浄光寺蔵)。

松原村新堂の医家井岡氏寄進の宮殿・灯籠・喚鐘

 江戸時代の初め、丹北郡松原村新堂に井岡玄安(範恒)という医者が住んでいました。
 井岡氏系図によると、同家は鎌倉時代後半、播磨(兵庫県)を本拠とした有力武将の赤松則村の四男氏範を祖とすると伝えています。永正5年(1508)、氏範の曽孫氏保は播磨から京都・東山の円山に移りました。安土桃山時代に入り、氏保の四代後の氏茂が名医の曲直瀬道三に師事し、医療を始めたといいます。氏茂の五代後が玄安で、新堂に移り住み、松原における井岡氏の祖となったのです。
 井岡氏宅は、融通念仏宗の浄光寺(新堂3丁目)とは中高野街道をはさんだ真向かいにありました。現在、井岡家は新堂を離れていますが、昭和40年代まで土塀に囲まれ、長屋門を持つ広大な屋敷地が残っていました。
 玄安は、寛文2年(1662)の生まれ。23歳の貞享元年(1684)4月25日、京都の医者として有名であった山脇玄脩に入塾しました。当時、玄安は道憶と名のり、河内から医療を学ぶため、京・大坂へ遊学した一番最初の人物だといわれています。享保2年(1717)、56歳で亡くなりますが、以後、井岡氏は医家として地域医療に貢献していきます。
 玄安の子に理安(公恒)がいました。理安は安永3年(1774)、63歳で没しますが、融通念仏の教えに深く帰依しました。私は、浄光寺の野田和男住職から江戸時代以後の過去帳を見せていただきました。そこには、理安時代以後の井岡家代々の忌日や戒名がこまかく記されており、今も同家当主をはじめ、妻子の位牌が何十基と本堂に祀られています。
 理安自身、浄光寺の本尊である阿弥陀如来像を安置する宮殿(厨子)を寄進しています。宮殿左側面に「明和元甲申十月 願主井岡理安」「河刕松原新堂浄光寺 霊和南淳代」とあり、明和元年(1764)のことです。理安は6年後の明和6年(1769)2月にも、「明鏡山浄光寺 什物」の銘を入れた喚鐘を寄進し、今も本堂の縁の鴨居に下げられています。
 幕末、理安の孫である元喬(恒徳)も寺の維持に尽くしました。浄光寺は天保2年(1831)に本堂や山門が再建されますが、この時、銀一貫目を寄付しています。今でいえば、300万円ほどになるでしょう。弘化4年(1847)には、現在、本尊両脇に祀られている融通念仏宗開祖の良忍像や中興の法明像を納める厨子を同じ檀家の村田八郎兵衛と共に寄進しています。さらに、嘉永2年(1849)、前年に13歳で夭折した子の径之助の供養のため、本堂外陣の天井に架かる銅板の釣り灯籠も「施主松原村井岡元喬」の銘を入れて奉納しました。
 元喬は安政5年(1858)、71歳で生涯を閉じますが、井岡家は世襲医家の傍ら、浄光寺の檀越として信仰にも厚かったといえるでしょう。