129 冷泉為村に師事した松永幸之進

松永墨池堂の墓 松永墨池堂の墓 故為清朝臣百回御忌御追慕

「故為清朝臣百回御忌御追慕」(岡2丁目・松永修氏蔵)と松永墨池堂(幸之進)の墓(浄土寺墓地。松永氏提供) 
幸之進墓は、今では旧松永家墓域から無縁墓の北面中央段に移されている。基礎石には「門弟中」と刻まれていた。東面三段目右端には4代四郎右衛門(法源)、6代作左衛門(法仙)の墓石も見られる。

久雄・貞雄・墨池堂の名で和歌を能した松原村庄屋

 江戸時代、丹北郡松原村の庄屋であった松永家(岡2丁目・松永修氏宅)は、俳諧を広めた京都の松永貞徳を祖とすると伝えています。このことから、当主の中には歌道に秀でた人もいました。とくに、7代の幸之進は18世紀後半、京都の公家で和歌を家職とした冷泉家15代の為村に師事しました。為村は当時、第一流の歌人といわれ、門人も公家を中心に徳川将軍家や諸大名の他、学者・豪商・庄屋など全国各地に多くを数えました。
 幸之進は、寛政元年(1789)の「名跡相続願書等控」や享和3年(1803)の「御位牌奉安置由来書」(「歴史ウォーク」128)をまとめ、家の来歴を後世に伝えています。また久雄のちに貞雄と名のり、明和2年(1765)12月4日の為村が添削した「久雄上 述懐」と題する草稿(「詠草」という)や明和3年正月2日の「久雄上 故為清朝臣百回御忌御追慕」、同年7月7日の「亡父十七回忌手向和歌写 源貞雄」などに歌才を発揮しています。
 「述懐」は、久雄が貞徳を偲んで詠んだものです。貞徳は承応2年(1653)に亡くなっていますが、このうちの一首に「わかのうらや舟路たとらぬつなてなハ代々の恵にひかれひかれて」とあり、為村は「わか」に朱線を入れ、「故中将殿朱をつく合点ゆへ朱かく合点す 為村」と記しています。
 「故為清朝臣百回御忌御追慕」は、冷泉家13代の為清が38歳で亡くなった寛文8年(1668)から百回忌になることを機に、為村が歌会を催し、久雄は「御出題」の「春懐旧」を詠みました。「ありし世もはや百年の春かすミ霞のころも立かさねきて」などがみられます。為清は歌人としてだけでなく、蹴鞠の名手としても名高く、貞徳とも交遊がありました。久雄は、松永家にとって為清を「御恩を蒙り奉りぬ」と述懐しています。
 「亡父十七回忌手向和歌写」は、幸之進が先名の久雄から貞雄と名を変え、寛延3年(1750)7月に亡くなった父の四郎右衛門を偲んで「寄露懐旧」の題を詠んだものです。巻末に「御宗道家ハ 上冷泉家前大納言藤原為村卿 亡父松永字謙 法名法源居士 源貞雄 松永鴻之晋」と記しました。
 幸之進は墨池堂とも称しましたが、文化2年(1805)6月に亡くなりました。今も岡地区の共同墓地である浄土寺墓地(堺市美原区大保)に「松永墨池堂之墓」と刻んだ墓石が祀られています。
 幕末、幸之進の子の泰助も貞倚と名のって和歌に親しみ、幕末から明治初期に活躍した冷泉家20代の為理や、公家で歌人の東園基敬が詠んだ短冊も同家に残っています。
 松永家には、貞徳の人となりを記した「花咲翁之傳記」や、文政2年(1819)に連歌師宗長の永正8年(1511)版を写した『伊勢物語』も伝わっています。当主は、庄屋としての任務とは別に、教養人として文化創造をも担ったのでした。