温和で住みやすい環境

松原市域は、温和な気候と住みやすい地理的環境により、古くから人々が住んできました。なかでも上田町遺跡や河合遺跡によって、弥生時代から丹比野の平坦地に人々が農耕生活をしていたことが知られています。

 

交通の要所

古墳時代になって、狭山池や依羅(よさみ)池、また数多くの灌漑用水路が作られて大規模な水田が開拓されました。このことは丹比新堂遺跡、上田町遺跡、大和川、今池遺跡によって知られています。倭の五王時代(古墳時代中期)には、竹内街道が通り、難波より飛鳥への交通の要所として栄え、進んだ大陸文化が伝わり、文化の高い地域となりました。

丹比柴籬宮丹比柴籬宮写真

日本書紀には、第18代反正天皇がこの地に丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)をおかれて、わが国の政治・経済・文化の中心地となり、五穀がよく実り、人々はにぎわい、天下太平であったと記されています。そののち丹比柴籬宮跡は、「松生いし丹比の松原」といわれるようになり、松原の地名の由来はここから名付けられたと伝えられています。また、全国で5番目に大きい前方後円墳の大塚山古墳があります。これは、陵墓参考地です。

 

古代交通の施設古代交通の施設写真

奈良、平安時代には、さらに交通網が整備され、長尾街道の西除川付近では、駅屋(うまや)という古代交通の施設が作られ、中高野街道が整備されています。そしてこの時代に書かれた「和名抄」により、依羅(よさみ)郷、三宅郷,土師郷、丹上郷、丹下郷、八下郷の村落の存在が知られています。その後、それぞれの郷は、国司の支配からはなれて荘園に変わりました。

内乱の時代

南北朝から戦国時代までは、内乱が続き、各地に砦や城が築かれました。大堀塁、丹下城、松原城、三宅砦、別所城、一津屋城などがそれです。江戸時代になると、高木主水正正次は一万石を領して丹南村に陣屋をおきました。

 

新大和川完成

宝永元年(1704年)には新大和川が完成し、その結果、旧大和川筋の水害を軽減しましたが、新大和川筋は豊かな村が狭められ、良田を失い、水害がたびたび起こりました。また、西除川の流路をかかえ、川跡を新田に開発しなければなりませんでした。

 

町村制施行

明治22年、町村制により、松原(まつばら)村、天美(あまみ)村、布忍(ぬのせ)村、恵我(えが)村が生まれ、明治29年に三宅(みやけ)村が中河内郡に属し、昭和17年7月に松原村、昭和22年に天美村がそれぞれ町になりました。

松原市の誕生

昭和30年2月1日、前2町3村が、町村合併促進法により合併して、府内21番目の市として、松原市が誕生しました。その後、美原町の丹南(たんなん)、堺市の河合(かわい)を合併し、そして若林の一部が八尾市に編入されて現在にいたります。