まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

親王から罰を受けた毒蛇

松原の民話第11話(2003年3月)

 昔の松原近郊には、マムシと呼ばれる毒蛇がたくさん生息しておったそうです。特に春の田畦を散歩していると『マムシ注意』の文字や、とぐろを巻いた毒蛇や舌を出して前に進む毒蛇の絵を書いた看板が道端のあちらこちらの地面に差し込まれてありました。

 今はもう松原の近郊では見られなくなりましたが、千早赤坂村建水分神社の下の道には、まだ残っています。でも、同じ河内の国のなかにあって、天皇や親王も御在所なさり政治の中心地でもあった肥田の地を持つ松原には、不思議なことに『マムシ注意』や毒蛇の絵の看板がありません。この謎はもしかすると、この地に古い昔から伝わる『阿保親王と毒蛇封じ』の民話と関係があるのかもしれません。

 むかぁ~し、むかぁ~し、まだ人間も神様も動物もみぃ~んな、仲良う暮らしていたころのお話だそうです。都が奈良の平城京から京都の平安京に遷都して40年程たったころの松原では、阿保親王が御在所あそばされて、村人たちは大層平和に暮らしていたそうです。

 ところが、松原はどこまでも広がる広大な土地を持ちながら、水の便が悪く、少しでも日照りが続くと土地は干からび、荒れ野が広がって、村人たちが一生懸命に作った作物は枯れて農民達はホトホト困っていたようです。こうした田畑の姿をご覧になった阿保親王は、農民たちを気の毒に思われて、溜め池造りを奨励し水路工事に力を注がれ、施薬院や悲田院をつくって村人たちが安心して農事に励む事が出来るようにお心を砕かれたと伝えられています。

 こうしたお優しい親王の心くばりは親王と村人たちの心の絆を強く結び、お互いの信頼は村の隅々まで行き渡っていました。水の潤いは田畑を肥やし、人々は笑い、虫は飛び跳ね、動物は駆けめぐり、蝶やトンボは空を泳ぎ、それはすばらしい河内の国の楽園であったと今の時代まで伝えられています。

 これほど素晴らしい楽園の地にも一つ問題がありました。それは、緑色に茂る草むらの中に毒蛇も住むようになり、人間や動物たちを傷つけたり殺したりして、村人たちを苦しめる日々が続くようになったからです。

 村人たちは、牛馬の餌にする大切な草を刈り取り、毒蛇を見つけると火で焼き殺すなど懸命な努力をしましたが、マムシと呼ばれる毒蛇への不安は大きくなるばかりで、少しも取り除く事は出来ず、親王へ加護をお願いする事になったそうです。

 そこで、村人たち達の苦悩の生活を見守っておられた親王は、海泉池の東側にあった厳島神社に祀られている弁財天女に毒蛇退去の祈願を親王みずからお掛けになりました。すると、霊験あらたかにも親王の祈願はすぐに受け入れられ、この時以来、松原からは毒蛇がまったくいなくなったそうです。それでも弁財天女の目を逃れて姿を見せる毒蛇もいましたが、すぐに見つかって地中深くに封じ込められて、子孫すら残す事が出来なくなり毒蛇たちは恐れおののき、松原に近づく毒蛇はいなかったと伝えられています。

 やがて千余年の年月を経たある日のこと、封じ込められた毒蛇が地上に出てきましたが、その毒蛇はなんと体が一つで頭が二つに分かれていたそうです。その毒蛇を松原の人々は「親王の罰当たりのマムシ(毒蛇)」と呼んでいたそうです。この毒蛇を見つけたのが三宅の若者で、今はもうこの地名は消えましたが『いやた』と言って、高見ノ里学園通りの北通りと長尾街道の交差点辺りでこの毒蛇を見せ物にしていたそうで、結構はやっていたと伝えられています。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)