まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

四十二の膳と狐の嫁入り

松原の民話第13話(2003年4月)

 むかぁ~し、むかしのお話です。阿保茶屋(あぼんじゃや)の付近は、道明寺や藤井寺、堺、狭山、平野大阪、高野山、伊勢方面へと向かう人と、神社や寺へ参拝する人たちの往来で賑わっていました。

 冬も終わり梅が咲き、桜が咲き始めるころになりますと、参拝の人々に混じって、奈良からは子供を産んで松原へ帰ってきた狐の親子までが、人混みを縫うように駆けて、参拝姿の人たちの中へ入り乱れて右往左往するなど、それは大変な賑わいでした。

 たとえばこの頃になると、現在の阪南大学裏の狐は、奈良から持ち帰ったクヌギの木や、奈良でしか生えない草などを植えては村人にしかられる姿や、河合の古墳山(こぼやま)の狐は人家の前に座り、おかみさんがお釜についた飯を洗った水を表へパッとほってやると、親狐は麦を子狐は米を食べている風景が見られたそうです。

 古墳山には、狸も住んでいましたが領域というものがあって、狐と狸の餌をもらう家は別々で、狐が食べている横を狸が通ってもお互い関知せず、平然としていたとお年寄りらは話されています。

 このように街道が賑わっていた時代のある朝の出来事でした。阿保茶屋にある一軒の茶屋に、立派な身なりをした男二人が入ってきて、「明日の朝に注文していた四十二の祝い膳を、客の都合で今日の夕方に日にちの変更と、数の変更をして欲しい」と言ってきたそうです。茶屋の主人は、二人の男が受け渡しの変更を申し出た料理は、新堂のあるお屋敷の婚礼が整った内祝いにと頼まれた膳料理だったので、見た事もない人を使いによこすはずはないと不審に思い、「膳の数は」と尋ねると「四十二の膳です」と、二人の男は声をそろえて答えたそうです。主人はそれでも不審な気持ちが解けずいろいろと尋ねたが、身内の者でしか解らない事まですらすらと答えたので、それならとその日の夕方までに急いで四十八の膳料理をつくることになったそうです。
 やがて夕方になり、さきほどの二人の男がやって来ると、祝い膳の前に正座して静かにふたを開けて丁重に中身の品定めをした後、「さすが阿保茶屋の料理」だと喜び、丁寧にあいさつをして膳を持ち帰ったそうです。この二人の礼儀正しい姿に感動した茶屋の主人は、心から四十八の祝い膳を頼まれたことを喜び、急ぎの変更とはいえ手を抜くことなく立派に仕上げたことを誇りに思ったそうです。

 この出来事に気をよくした主人は「急ぎの仕事で、みんなもさぞかし疲れたことだろうから、少し早いが今日は早仕舞としよう」と店じまいをしました。その明くる朝のこと、新堂のお屋敷から使いの者が祝いの膳料理を受け取りにやって来たそうです。主人はあわてて昨日の出来事を話して、それでも取り急いでその場にある物で食事を作りその場をしのいだということです。

 四十八の祝いの膳を二人の男に渡した夕方の事、太陽が地上に霧を吹いたような雨が降って、大和川に向かって架かった美しい虹の橋を見た人がたくさんいて、城連寺地区の人たちの話では、狐がたくさんの荷物と供の者を連れて、虹の橋を渡っていく嫁入りの行列姿を、巻物の絵を見るような感じで見たという噂が伝えられています。

 さて、長尾街道と中高野街道の交差点辺りの地名は、阿保茶屋(あぼんぢゃや)と呼ばれ昔は賑わったところでした。地名のいわれは、阿保の名前がつくように、阿保親王とかかわりがあります。八三四年に阿保親王が大和の国から田座の地である現在の田井城から、三宅、阿保一帯と推定される広大な地に移り住まれた時、田座の東部を「阿保」と名付けられたといわれています。阿保茶屋の地名は、江戸時代に神社や寺参りの街道として栄え、旅人の休憩地として茶屋が出来た事から、この交差点辺りが阿保茶屋の地名となり、時代を経て今は地名ではなく、この付近を通称「阿保茶屋」と呼ばれて、今に受け継がれています。
しかし、街道は時代によって賑わいは変わり、大正、昭和初期生まれの子どもたちが「阿保茶屋8軒、便所と馬屋で16軒」と学校帰りに、はやし唄を歌ったように、田園地の静かな時代もあれば、軍隊の演習への道として昭和十年代には、行軍の足音が深夜も続いたと語られているように、この道は時代の変遷を的確に受け入れて、古代から今に残っている道なのです。

 今回の話でもわかるように、松原の五街道は交通の要所として多くの役割を背負って発達してきたことが民話の中で良く表されています。竹之内街道と中高野街道の交差点あたり(茶屋筋)の「膳と狐の嫁入り」、旧高木村地区(下高野街道)に伝わる「六十八の膳と狐の嫁入り」など、非常に類似した話がたくさんの語りとして残っている事からもうかがえます。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)