まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

阿保親王と稚児が池

松原の民話第15話(2003年5月)

 松原の民話における特色の一つに古代民話があります。中でも古事記に即した民話は、松原の人々が古事記を読んで生活した訳ではないにもかかわらず、松原の生活や土地の姿などを古事記の世界をおりこんで語られております。天皇や御陵の語りなどは、千余年の歴史を飛び越えて、今の世まで持ってきて語りつづけられています。

 さて、今から語る阿保親王民話も、親王の御子、在原業平の話はもとより子孫や子孫ではないかとの、おもいのあるものに至るまで親王の徳をたたえて、語り継がれており、この稚児が池のお話も、千余年の歴史を飛び越えて今に残っている親王の子孫のお話です。

 さて、長尾街道を東へ向かって行くと中高野街道の交差点に着きます。むかしはこの辺りを『あぼん茶屋』と呼び『うめのや』という料理屋がありました。ここから300m程行ったところに稚児が池と呼ばれる池がありました。この池は別名『親王池』『棒池』と呼ばれておりますが、その名の由来は水利の便のない農民達のために親王みずからが荒れ地の開墾に力を入れ、灌漑用にこの池を造るに当たって先頭だって指揮をとつたといわれ、その徳を慕って『親王池』の呼び名があります。また、『棒池』の名は、このお話の主人公である幸松麻呂の卒塔婆を立てたことから呼ばれるようになったと言われています。そして稚児が池の名の由来は次のようなお話が伝えられております。

 ずうっと昔、平安時代のお話です。松原の地では都が大和から京都へ移るにともない、重要拠点としての地理的役割も次第に薄れ、朝廷に関わる人達も、どんどん松原の地から離れて、京へ京へと移っていきました。ところが、このような時勢に雨の日も風の日も欠くことなく松原から葛井寺まで愛馬に乗って早朝に出かける稚児がいたそうです。この稚児は松原に宮殿を構えていた平城天皇の第二皇子阿保親王の末裔で、御年十三才になる幸松麻呂と言う稚児でした。父の在原信之は学問に秀でた方でしたが、生まれつき病弱であったので妻と幼い幸松麻呂を残してこの世を去ってしまったそうです。しかし、幸松麻呂はこうした不幸に負けることなく、父親に似て利発で、心根の優しい誰もがほめる孝行者となって、細々ながら母と二人で幸せな日々を送っていたそうです。

 ところがある年のこと、母親が原因不明の悪性の眼病にかかり、孝行者の幸松麻呂は東へ西へと薬を求め探しては試すのですが、とうとう盲目の身となってしまったそうです。
八方尽くす手は全て尽くした幸松麻呂は、もう神仏のご加護にすがる以外道はないと葛井寺の西国五番十一面千手千眼観世音に三十七の祈願を掛け、毎朝欠くことなく愛馬と共に参詣したそうです。やがて、風雨の日も夏の暑い日、冬の寒い日もただひたすら一心に参詣する幸松麻呂の孝心が通じたのでしょうか、母親の目は日一日と薄紙を剥がすように快方へ向かい、書物さえ読める程になったそうです。親子は大層喜び、観世音に感謝を念じて日々過ごして、ついに満願の日を迎えたそうです。その日の幸松麻呂は、いつもの何倍もの時間をかけて観世音に礼を述べると、いつものように愛馬にまたがって帰路へと向かいました。やがて先祖が掘ったと伝えられる親王池まで来たとき、愛馬は池の縁に両足をそろえて透き通ったいななきを一つすると、吸い込まれるように幸松麻呂を乗せたまま池の中へと消えていったそうです。そしてこの時以後愛馬と幸松麻呂の姿は誰も見たことはなかったそうです。ついては池の中に身を投じた説には2説あり、観世音に命を捧げる約束をしたと言われる説と、愛馬の意思で入水し幸松麻呂は愛馬に逆らわなかったと言う説です。その後、幸松麻呂の孝心をたたえ村人達が墓標をたて供養し、古くなると建て替えられ又建て替えられして昭和十五年頃迄あったそうです。

 現在、この池は埋め立てられていますが、池の北側には阿保神社があり、本殿右側には親王の御殿御造営の場所から移されたと伝えられる『親王社』が合祀されています。また樹齢千年とも百年とも言われる楠の大木があり、幹の太さも五mに近いと言われています。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)