まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

松原の阿保親王伝説

松原の民話第16話(2003年6月)

 長尾街道沿いに語られている民話を布忍地区から東へ向かって親王池址まで、松原の特色と親しみのあるお話を選んでこれまで15話を語って参りましたが、そのうち阿保親王関係の民話が三分の一をしめてしまいました。阿保親王民話は長い年月を経ても、止めどもなく語り伝えられ、第12回のはがみさんのように「もしかすれば」とした松原に住む人々の想いまで含めると、採集ノートを開かずとも30話程度の語りはすらすらと浮かぶほど、数多く語り継がれております。
この事からも、いかに阿保親王が松原の人々にとって親しみと敬愛を持って迎えられていたかがわかります。その中には、中高野街道沿いに語られている「東側に窓を付けないわけ」の話のように親王の御子にあたる業平の民話や、「大塚山は阿保親王の御廟である」や「一津屋の南側、通称お墓と呼ばれた地名は阿保親王の皇妃をおまつりした場所である」などは、真偽は別として松原に住む者だからこそ語り継がれている民話です。松原びいきの私は、真偽を論ずる前に大切な民話として次代へ、ありのままを受け継いでいきたいと思っています。

 さて、松原の人々の心に残り、多くの民話で語り継がれている人物を即座に答えるならば、反正天皇、阿保親王、王仁博士、行基、と答えます。こうしたことからしても、今後も親王民話は数多く語ります。そこで「松原の人々が語る親王伝説といいつたえ」の部分の御誕生から崩御までを今回は語ります。

 阿保親王(792~842)は平城天皇の第二皇子として大和の国に御誕生あそばされました。松原では、第一皇子また第五皇子と語る人もあります。いずれにしろ、御子に在原行平、守平、業平と今の世にも名を連ねておられる御三人がいらっしゃいますが、その一生は決して恵まれたものではなかったと伝えられています。その上に、親王の血を引く者は親王池に身を投じた幸松麿で、何代目に当たるか定かでありませんが、絶えてしまったとも言われており、長い代は続かなかったようです。しかも、親王は祖父桓武天皇の遺言により、父平城天皇即位の後は嵯峨天皇に即位を譲り平城天皇の子供には即位させないと決まっておりましたので、親王は生まれながらにして天皇になれない運命を背負って誕生なされたのでした。
また、それだけではとどまらず、青年期を薬子の乱に関係したという疑いで、14年間に及ぶ長い歳月を筑紫に左遷され、帰京が許されたのは御年33歳であったといわれております。ところが、若くして辛苦をなめ続けた生活にもかかわらず、苦しみに心を歪められることなく人間の深みを養われ、親王を偲ぶ伝説や業績をたくさん残しておられます。

 さて、地名にはそれぞれに「いわれ」があるようですが、阿保の名称の起源は、834年に阿保親王が大和国三条坊門南高倉磯上筒井から河内国丹比郡田座(現在の阿保、田井城地区)に御殿を造営され居を移されたことから、地名が阿保となったといわれております。当時この地は大和朝廷直轄の土地で政治的にも重要な位置にあったようです。こうしてこの地に住居なさった親王は開墾に力を注がれ農業を奨励し、灌漑池をつくり恵我川に橋を架けられました。
さらに、飢えに苦しむ人々に常に心を痛められ、貧民病者のために悲田院や施薬院をつくり、親王池の西南の地に学問所も作られたそうです。その場所の地名は通称「学堂」の呼び名で残っていました。また、現在の阿保神社前の道をへだてて東側に広大な親王の御殿があったとされる場所も、通称「公垣内(まきがいと)」の地名で呼び名が残っていました。そのほかにも松原ではありませんが、葛井寺の再建など限りない業績を残され、承和の変を未然に防がれた業績を最期にして、これより三ヶ月後の御年51歳にて波乱と慈悲と叡智の生涯を閉じられたと語り伝えられております。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)

阿保神社の写真