まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

いい者もわる者(良い人も悪い人になる)

松原の民話第17話(2003年6月)

長尾街道は、古代から多くの人々が往来して、十人いれば十人の、百人いれば百人の人生の物語を持ってこの道を行き来しておりました。

今から25年程前に他界されたが松原の史跡などを調べていた大堀の男性が、民話を語って下さるとき「いいもんもわるもん」の言葉をよく使用していました。この言葉は古い松原の言いまわしか、彼の言い回しか尋ね損ねたのですが多くの人々が「いいもんもわるもん」になったり、出会ったりしながら、この長尾街道を通った事と思います。この道を通った、または通ったであろう「いいもんもわるもん」を紹介します。

●親切な蟻

むかぁし、人間も神さんも動物もみぃ~んな仲良く暮らしておった頃のことでした。

あちらをみてもこちらをみてもセカセカと往来する人、人、人、止まることなく歩く人々で、長尾街道はそれはたいへんな賑わいでした。そんな人混みの中で、百舌(もず)と鶉(うずら)がお金を拾いました。そこへ鴫(しぎ)と鳩(はと)がやってきて、そのお金はもともとわたしたちがみつけたのだけれども、余りの人混みで拾うことが出来なかっただけだから私達に返して欲しいと言って争っていたそうです。そこへ地べたをセカセカと歩いて、蟻がやってきて、「なんとまあ、この忙しい時に、どこから来たか知らないが、終わりのない喧嘩をしていると人間に踏みつけられて腹を出しておだぶつになるだけや。幸いに松原には分配唄が伝わっていますから、唄の通り分けてあげましょう」と仲立ちに入ったそうです。4羽の鳥たちは喜んで「まあなんと親切な蟻さんでしょう」といってお金を蟻さんへ渡したそうです。すると蟻は大きな声で

『鳩は八文鴫四文、鶉二文に百舌一文あとはあるだけ蟻のもん』

そない言って、残り全部を持って穴の中へ入ってしまったそうです。騙されたと気付いた四羽は仕方なく飛んで帰っていったそうです。だから知らない土地へ行った時は、見た目や聞いただけで信用したり判断してはいけない、いつ「いいもんもわるいもん」になるか、わからないからだそうです。

●キリシタンと長尾街道

ずぅっとずぅっとむかしのこと、堺に銀の棒二本を縦と横に交差させて結び、神様だと言って首に掛け、幸せを祈るキリシタンと呼ばれる人々が住んでいました。ところがその神様は異境の神だとしてキリシタン弾圧がどんどん厳しくなりその神から幸せを授かってはいけなくなりました。堺の人々は弾圧の中を一生懸命その神を守りましたが堺では守りきれずあちらこちらへと隠れて生活をしていたそうです。松原においても別所小四朗がこの地に住んでいたことと、堺からまっすぐに長尾街道が松原に通っていたことも含めてキリシタン信者が来ていただろうと言われています。そして、別所には風俗習慣の異なるひじりさんと呼ばれる人が聖屋敷に住んでいたとの口伝が残っております。この他にも、この地には熱田神社がありこの神社の裏の藪から江戸時代中期のもので一般にキリシタン灯籠と呼ばれる1メートルに足りない灯籠が出てきて、本殿西側においてあります。この地を守る唄と判断する子供唄は口伝のみで、文字にするのははばかれますが「別所なになに・・・・・」の歌詞で残っています。救う神さえも時代によっては「いいものもわるいもの」になるようですが、異境の神を信じる人々をこの長尾街道は救っていたかもしれません。

●片桐且元(片桐東市正豊臣且元)

いかなる忠誠を持った人でも一歩間違えると裏切り者の烙印を押されてしまうという実例の人である片桐且元は、大野治長や淀君に裏切り者の疑いを掛けられ市(いちの)正曲輪(かみくるわ)(現梅林)の屋敷を後に玉造通用門を出て平郡郷竜田の城(茨木の城という人もいる)へ帰る途中、長尾街道のどの辺り判りませんが、布忍辺りか阿保茶屋辺りと思われる場所で、見送ってくれた家臣となごりの宴をした後、万が一の時にと連れていた人質の治長の子を家臣へ連れ帰るようにと渡したとの言い伝えが残っています。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)