まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

高木村のじいちゃんの話2―2話(明治44年生まれ)

1、川へ天龍が降りた 2、鶏の喧嘩と相撲(世間話) 松原の民話 第69話(2007年1月)


1、川へ天龍が降りた

 人間というものは、聞いてはならない事は、聞いてはならない。言ってはならない、見てはならない事は、言ってはならないし、見てはならない。それを破るといろいろな災いがおきるのだそうです。

 この事は第66回で[天龍をみてしまった男]で書いておりますが、この時代には天龍や天馬が本当に地上に現れたのではないかと、信じられるがごとくに、天馬は多くの目撃者付きで語られますし、天龍も同様に、その姿や形、しぐさまで見たがごとくに語られますので、架空の龍であり、馬であると理解しながらも、やはり本当に天龍も天馬も存在していたのではないかと、お話しへ引きずり込まれてしまいます。

  さて、このお話は昭和59年に採集したもので、川へ降りた天龍を知っている男の家系を持つ明治生まれのじいちゃんから、高木のじいちゃんが聞いた話です。川へ降りた天龍を知っている男は、布忍神社近くに住む農家の主人で、体験話だそうですが、時代は今から6代前にさかのぼる出来事だそうです。

 ある夏の暑い日のことであったそうです。その日は雲一つなく太陽だけがギラギラ、ジリジリと地面に光と熱を天上からふりそそいでいたそうです。こうした例年にない灼熱の中で主人は、小墓のところで、いつものように畑仕事をしていたそうです。するとこちら(東南)から西除川へ(北西)向かって急に夕立がおそってきたそうです。 百姓の男は、これはただごとでないと思い、身体を地に伏せて襲ってくる夕立が過ぎ去ることを待っていたそうです。

 「するとまあ、恐しや恐しや天龍が西除川へ向かっておりてきよりましてんやがな。百姓男は「みたらあかん。みたらあかん」そない唱えながら地に伏せて天龍が通りすぎるのを待っていたそうです。天龍の姿ですか。見なくても見えたそうです。前身に緑の魚の鱗を付けていたそうです。「絵と同じだった」と言っていたそうです。「けど、みておまへん。」、そない言うてたそうです。」

 その年大地震があって、南河内は大変な被害だったそうですが松原は安泰だったそうです。松原は昔々から五穀豊穣、転変地変のない、いつも安泰な平和な土地なのだそうです。「天龍の御陰ですか」と尋ねると、それはわからないそうですが、松原は天馬が走ったり、天龍が川へ降りてくる土地だから、素晴らしい平穏な土地であることは確かだと思います。「それではもし天龍を見てしまったらどうなるのでしょうか」と尋ねました所、ある家では、畑仕事をしているときその家の主人が、しっかりと見てしまったそうです。その結果その家では不思議にも代々同じ災いが起こって昭和の代になっても、まだ続いていたそうです。

2、鶏の喧嘩(世間話)

 今の時代からすると狐、狸、龍、天馬が隣人(となりびと)の形で松原に住む人々の生活の中に溶け込んでいることに「不思議の世界」を感じられると思います。しかし高木のじいちゃんが語る民話の時代は、本当に狐は化けることができ、化かされましたと信じられました。 化ける、化かす行動を「嘘だ」「信じられない」と言われるのは、現在とこの不可思議の時代とは生活形態がちがうからです。

 民話のジャンルの中に「世間話」があります。そこをちょっとのぞいてみたいと思います。それによって、その時代は不思議と思わずに生きてきた人々を理解できるかも知れません。(昭和59年採集)

  さて、松原で復活させたいが不可能だろうと思う夢の中に、一つに『南無天(なもで)おどり』というものがあります。高見神社氏子一帯につたわる踊りです。目蓮尊者の母を餓鬼道から救った喜びのおどりで赤鬼と青鬼を先頭に太鼓、笛、鐘などでリズムをとりながら、村落を練りおどるものです。次に「日本画に描かれている闘鶏の美しさを実際に見たい、しかし無理な話やなあ」と、語っておりますと、高木村のおんちゃんから次のようなお話を伺いました。

 「ああ、鶏の喧嘩な、あれ軍鶏(しゃも)でんねん。大阪でも河内の者(もん)の遊び言うんか、仕事なぁ、まあ博打(ばくち)ではないが、ウ~ンまぁそんなもんかいや。河内でも、中河内がすごかった。もう闘鶏をやっているところはなかろう。やっているかなぁ。軍鶏は、100羽いても、喧嘩出来る軍鶏に育つのは、その中のほんの一部だすよってなぁ。金もいりますわなぁ。道楽者でなければ、なかなか出来る事ではないですわ。」といってこのような世間話を語られました。
 
 大正のはじめから昭和にかけて、軍鶏という鶏を喧嘩させて、それにお金をかける遊びのような事を松原でもしていたそうです。語り手の家の近くでは、セエヤンがしていたそうです。『同志』と呼ばれる人のことです。鶏は一般家庭で飼っていました。セエヤンがこの一般家庭で飼っている鶏を各家庭から預かり、試合場所へ連れて行って鶏を戦わせます。1軒の大きさの筵を2つに折ってその中に軍鶏を入れ戦うのだそうです。 仲間同士でするのではなく、誰でも参加が出来るのだそうです。

 「今から54年前から、大正のはじめか・・・テイヤン来たのは遅まっせ。我堂から来た。それから福松さんもしていました。大正のはじめ昭和じぶんで1円(1日の大人の日当金)くらいでっせ。大正やったら20銭から30銭・・・・・10銭からですわ」。松原にもこうしたお金をかける遊びがあったようです。

 『ねえちよちゃん』という大正時代の唄を教えて下さった同年代の女性が、「父は闘鶏に勝っても負けても呑むの。母が、「もうそろそろ連れて帰り」と言うと布忍へ行って父を連れてかえった。あの頃はどこも貧乏でその日暮らしだったけど幸せだった。年寄り(祖父母)が一番偉かった。そして父で私等だった。母が家を取り仕切っていた。上の者に逆らったら母に叱られた。尋常小の時、祖母の下(しも)(おしめ)の世話をした。赤ちゃんの時、祖母におしめの世話になったので、お返しが出来てお前は幸せ者だと母がいっていた」。

 一日の稼ぎを全部使っても許す度量、祖母の世話が出来る事を幸せ者と言う母。これが普通の家庭だった時代だから、狐も隣人(となりびと)であり狐は人を化かすと信じる事が出来たのではないでしょうか。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)