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松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

布忍で聞いた耳袋-10<語り編4>

15、大和の狐    松原の民話 第81話(2008年1月)


15、大和の狐

 このお話も、狐が大根になった話のとき、そういえば、大和の狐は冬になり大根が出来る頃になるとやってきましたなぁ・・・と言って続けて聞いた話をまとめたものです。

 今は品種改良されて夏でも大根がありますが、大根は冬のもので厳冬ほど甘く美味しいものでした。夏の大根は舌がピリピリとして辛く、一般には食べなかったようです。また河内の大根は葉茎の部分も根も、スマートであったようです。だから「大根になった狐」で語られているように、大根を狐の手と間違えて、しっかりと握っても狐が化かす、化かさないの論議を別にして、お話として聞き手には違和感がなかったのかもしれません。

 さて、大和の冬は寒く、年老いたとはいえ源九郎狐さえも松原へやってきて、和泉で最期をとげたと伝えられているほどですから、寒い大和から狐が松原にやってきて、それぞれの一族が例年の自分たちの住処で、生活したお話もうなずけます。春が来て菜種の咲く頃になると子を産み、大和の自分たちの家へ一緒に帰れる程に成長すると、「おおきに、おおきに」って頭を下げて帰っていくそうです。冷静に活字で読むと狐を擬人化したお話ですが、実際に子供の頃から狐塚の狐と遊び、成人しても隣人として、時には餌を持ち運ぶ生活をした人から聞くと擬人化した狐のお話に違和感はなかったと思います。

 布忍では高橋の向かいに狐塚があったそうです。狐塚といいますが、墓でも古墳でもなく、松原では狐の住処を狐塚と言うのだそうです。狐塚は家族に会わせて、大小さまざまであったようですが、まあ、1つの塚にだいたい2つか3つくらい穴が空いているのが普通だそうです。高橋の狐塚は5つも6つも穴があって狐の親子がチョロチョロと走って遊ぶ姿が村人達の目を楽しませてくれたそうです。こうした親子の姿が村人達に一層の親しみを持たしたのでしょう、塚の前を歩く者は、一声「ぎょうさん食べて早う大きゅうなりや」とか「鼠を捕っても隠しなや。腹がふくれても残しなや、食べ終いや」「子ォのためや。よう食べてええ子産みや」とか、てんでに言うて、食べ物など投げ与えていたそうです。

 さて、天美の阪南大学正面前にも狐塚がありました。ここの狐は有名で、城連寺、東代の人達からも同じような話がたくさんに語られています。語り手によって少しずつ違います。また同じ塚の話でも語ってくださる村落によって、少しずつ違います。狐に対する考えの違いでしょう。

 東代の地区にも阪南大学前の狐塚の話や、この近くの淵と呼ばれる小さな池の側に住む大和の狐の話が多種多様に語られています。次の大和の狐は三ツ池のいわれの語りと一緒に聞いた話です。布忍駅から長尾街道沿いに少し行ったところに、三ツ池と言って大きな池が、長尾街道を挟んで三つありました。昭和50年代にはまだあり、釣り堀をしていました。
 ここには日本一とも世界一とも言われる程のべっぴん(美人)狐が住んでいましたので、他の狐の住処はなかったようです。墓も石を重ねただけですがあり、マンションが建って数年までは花や油揚げのお供えを見ることが出来ました。
 この池から大和川(北)へ向かって土地が下がっていますが、水の便が悪かったので、東代の人達がこの池を掘ったので東代の村の池と言われています。(語りであって調べていません) 語り手の土地も池になったそうです。 

 冬になると阪南大の裏にある淵の狐が「餌くれ、餌くれ」と出てきて、こっち(OOさん)の方をじっと物欲しげに見るんですわ。子や孫が仏様のお菓子のお裾分けを黙って賢こうして、座って待っている姿と同じですわ。それで仕方なく袋からなんぞないかと探して、ポイって投げてやるんですわ。
 ここの狐も、代々松原で生まれ育った狐ではなかったので、悪戯したり、騙したりしぇしませんでした。冬場だけですわ。その頃の冬は今よりずう~っと寒かったのですわ。綿入れを着ていました。丹前の袖のないの。袖は仕事の邪魔だからありませんのや。
 大和でも同じで雪が深いから冬を越すのは狐にとっても難儀なことでしたんかいな。松原へやって来ていました。
 ここの狐は大所帯でした。なんでかというと、昨年子ォを三匹生んだら三所帯と親が来ていて、また次の年も同じやった。名前はよそ者(狐)やから無いが、毎年来るよってなじみばかりの狐だったから、よそ者でも村の仲間に入れてもらっていました。
 嫁さんを連れて帰ると、亭主が子供の時の顔を知っているから、「ハハ~ンあの狐やな」ってすぐわかるので、人間でも狐でもすぐに声をかけてもらっていましたわなぁ。嫁さんの狐もすぐ村の仲間に入って、鼠やイタチをせっせと捕ってくれるし、水路の草は掃除をしてくれるしで可愛がられていたんですわ。
 そんなこんなで、所帯も多いから大変だろうと村人もそこは心得ていて、田畑の仕事帰りには弁当の油揚げなどを残しておいて、狐穴に向かって投げてやると、頭をペコペコ下げて礼を言うと犬のように、油揚げを口にくわえて嫁さんの所へきっちりと持って帰っていましたわなぁ。
 化かすってか、それはない。かんご池や小墓の狐はここ(松原)の狐やよって人間に悪戯をしていましたが、阪南大辺りの狐はよそ者ですからなぁ。まぁ、それはきっちりこちらも(人間)させますわ。松原の者やないのやよって、いくら可愛がってもそれなりの掟はありますわなぁ。それが仲良う暮らすということですわなぁ。

(注釈)
狐塚・・・狐塚古墳の名前は他市でも多く聞きますが、松原では狐塚古墳跡(前方後円墳、全壊で道と宅地にほんの少し面影地)が天美西にあり市文化財指定となっています。
語り手当時の大根・・・女性仲間の雑談の時、「大根足って言うけど、昔の大根は今のようにずんぐりむっくりでなかった。長くてきれいな白で、もっと細かった」「青首と言うて葉の下が緑色したのは土の上から大根が出て、太陽に当たった部分が緑色になっていたと思う。緑の所は甘くて大根おろしに最適だった。」「緑のところは巣がはいり(編み目状になり)固かった。水分も少なかった。」「大根足は褒めことばかもしれない」等があります。
丹前・・・綿入れの茶はおりのようなもので、袖が筒袖になり、衿はおらずに綿が入り、汚れが目立たないように黒の別布でした。袖のないのはポンシ、ポンチョ等と呼ばれています。


大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)