まつばらの民話をたずねて

松原の人々の一生

今月も引き続き成人過程についての言い伝えなどを紹介します。例によって、俗信や生活習慣からくる非科学的や非文化的な行動など諸々の部分などふくめて、聞き取りした内容の中にはこんな事があったのかと笑える部分もあり、残念ながら笑えない部分もあり、人権上不適切な事項も多々あるかと思いますが、生活習慣風土が作った民俗のなせるわざとしてご理解下さいますようお願いいたします。

第42回 男子の兵隊検査と女性の生理現象 


1、男子の兵隊検査(徴兵検査)

 男が21(満20歳)になると兵隊検査(徴兵検査)がありました。役場から何月何日に検査に来るようにと通知があったようです。たいていは地域の小学校の講堂で行われたようです。

 検査は身体検査と勉強のテストと、レントゲンで、御弁当を持っていったようです。身体検査は身長、体重、視力、性病などの検査があったようです。そのころの性病は梅毒という病気があったようです。ふんどし(日本の男性用パンツ)だけになり、着ていた者は各自が持ってきた風呂敷に包んで指定場所に置いて身体検査に臨むそうです。

 検査の日は伊勢講が3月16日で、その後の4月から5月頃だったと記憶しているそうです。検査の結果は、甲、乙、丙、丁と4段階に分けられるそうです。甲をいただくと大変名誉なことで自慢できることであったようです。甲種合格ですと、12月10日だったと思いますが検査後1年足らずくらいで、部隊へ入隊するそうです。松原は八尾地域なので歩兵第8聯隊、騎兵は第4聯隊、工兵ならば高槻の大隊となるそうです。

 さて入営日の前日には入営祝いの膳が用意されて親戚縁者でお祝いをするそうです。 当日は村の家々や他村に住む親類縁者、知人、親戚、仲間と入営祝いにやってきてくれ、「祝入営 ○○○君」と書いている幟や吹き流しを家の門口やその周り、また村はずれなどに何十本と立て華やかに景気づけしてもらったとのことです。

 こうして朝早くから送別のために祝杯をあげ見送りの人達に囲まれます。見送りの人達は連隊の営門まで行列をつくって見送ります。途中に、近隣の村でも同様に入営者がいて、その一団と出会うと、見送り人同士が衝突し先を争ったそうです。こうして入隊します。

 やがて、2年から3年たつと満期除隊になります。この時も又、聯隊営門まで家族や親戚縁者、知人や近隣に住む人達が迎えに来てくれて、いっしょに自宅に帰ります。

 自宅では祝い膳が用意されて迎えられます。これをねぎらいの祝い膳と言い、入隊中を奉公と言い、「奉公の労をねぎらっての祝の膳」と言います。 入営祝いをしていただいた家々へ対して、盆やさかずきなどに除隊者の氏名、所属部隊を書いて祝い返しとして渡したようです。こうして兵隊検査や入営、除隊等が終わると、親や親戚縁者が見合いの話を持ってきてくれるようになるようです。

2、女性の生理現象

 女性が大人になるのは初潮です。この生理現象によって周りからは結婚できる女性として、成人として認められます。お赤飯でのお祝いは戦後生活が豊かになり、テレビやラジオの普及によって、また豊かな生活になって、礼節を重んじるようになってから行われるようになりましたが、それまでは赤飯で祝うようなことはしていなかったようです。母と特に親しい友人や叔母が「赤い腰巻き(着物下で使用のパンツのような役割の物)」を贈ってもらった経験者があったくらいです。

 女子へ対しての祝物、お礼の品といえばたいていは下駄、半襟等ですが、祝の品物を渡すなどはなく母親関係が知り、小声で「大人になったって、か」と祝の心を持って声をかけ程度のようでした。

 戦前まではパンティなる物が無く、汚れてもめだたない赤の腰巻き程度でしたので、そのままですと血液が流れてしまいます。そこで男性用のふんどしのような物をし、生理用品は布であったようです。綿花となったのはずっと後であったようです。それまでは布を折りたたみして使用し、使用後は人目につかぬよう洗い、同様に人目につかない所へ干したようです。

 この現象によって結婚の話が来るようになります。しかしこの時代はまだ嫁取りは「人手」「口減らし」との考えも残っていたようでした。また髪型の「桃割れ」を結わなくなったようです。

 なお、わたしの採集対象者が特別上流生活者でなく一般の生活者であることから儀礼の採集がなかったのかも知れませんが、明治、大正時代はこうした形のようでした。

 また、生理用品ですが、綿花のかわりに藁を芯にしてその上を布でまいた例もありました。糞尿は大切な肥料でしたので、個人的考えですが綿花は糞尿の中に捨てることはどうであったのかと思いますが、藁ですと肥料として再生品であるのでと思いましたが、残念ながらよくわかりません。

 青年団という若者の集団結成が大正から昭和にかけてあちらこちらで出来ました。松原では「青年団」「青年修養団」女子の「処女会(おとめかい)」などが生まれたようですが、戦後もあったようですが、いつ無くなったかは皆さん覚えていない状態で自然消滅の形でなくなったと思われます。

 結成当時の青年団は男子の集団ですが、あまり年月かけずして男女の健全娯楽社交場として、発達していったようです。会合は夕食後の夜に行われ、剣道、柔道、卓球などのスポーツ、将棋、碁、等の遊び、花見や盆踊りの練習のように若い男女共同娯楽、など新しい時代を建設するエネルギー集団といえる物であったようです。こうした形で誕生から成人までの姿があったようです。

 子供達は村落共同体の中で他人の子も自分の子も隔たり無く、大人に大切に見守られて育てられた事が伺えます。何度も書きますが、明治、大正生まれの人が採集対象となっていますので、時代にずれがありますが、こうした儀礼の元で育てられた事を垣間見て頂けると幸いです。

  次回の第43回から成人、青年の部に移ります。尚、私は現在64歳ですが、二十歳をすぎて初めてペプシコーラ(その頃コカコーラは薬臭いと敬遠されていたように思います。)を初めて飲み、男性もいましたので「不良になった、大人になった」独特のときめき感情を覚えています。こうした私の時代より2、30年前の人達の姿です。

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)