まつばらの民話をたずねて

松原の人々の一生

今月から成人の青春期から結婚までについての言い伝えなどを紹介します。例によって、俗信や生活習慣からくる非科学的や非文化的な行動など諸々の部分などふくめて、聞き取りした内容の中にはこんな事があったのかと笑える部分もあり、残念ながら笑えない部分もあり、人権上不適切な事項も多々あるかと思いますが、生活習慣風土が作った民俗のなせるわざとしてご理解下さいますようお願いいたします。

第47回 青春期から結婚まで-1


 1、女性の結婚適齢期  

 男性は結婚適齢期という年齢に関してさほど重視していませんが、女性は無視しようと思っても本人に関係なく、まといつくものがあったようです。女の子は初潮を迎えて成人となります。初潮については、第42回女性の生理現象をご参考下さい。

 さて、結婚適齢期ですが時代によりますので何歳とは言えませんが、昭和10年代生まれの女性達の親は、娘が23歳を過ぎると婚姻の成立を焦ったようです。

 10代で結婚が成立の場合は、「学校を出たばかりで、嫁入りの用意、稽古事も時間がなくて十分でないので、どうぞそちらさんで仕込んでやってください」と言うことが出来ますが、20歳を過ぎると嫁入りの荷物もそれなりの用意となります。
 24歳になるといろいろ細やかなことにまで気を配るようになります。周りも人物評にまでなにかと話題がふくらんで行く形態が見られたようです。
 30歳になると嫁に行かずして後家になってしまうと言った意味の言葉で表現されて、嫁に行くことを勧められる状況がみられたようです。もちろん当事者の周りという小さな輪の中で発生する事ですが、本人よりも親のほうが浮き足だったようです。

 これは戦後の新しい教育と、戦前教育との狭間時代に生きていた事にあるかも知れません。旧制中学から新制高等学校と制度が変わり、女性の高等学校進学率の高まりが結婚適齢期にも微妙にからんでいたのかもしれません。最近はもう結婚適齢期年齢がくずれているようで女性として嬉しく思っています。

 戦前までは、たいていは見合いでした。恋愛であってもきっちりと仲人をたてて見合いの形で結婚しました。しかし古いデータですが平成9年10月に結婚で不要なものに、1位仲人、2位結納金、3位結婚式の二次会であったとのアンケート調査が毎日新聞に載っていました。もう適齢期も、結婚も恋愛結婚は「ドレアイ」といってゆびさされなくなったことを実感したデータでした。

 松原では戦前まではたいていの人が、見合い結婚でした。恋愛のことを「ドレアイ」と言っていました。仲人もなく、結婚に至る決まりを守らず「愛している」の心を第一として、家と家のつながりや釣り合いなどを大切にせず、手順を踏まないで結婚し、新しい所帯を持った結婚を「ドレアイ結婚」と言いました。「ドレアイ」の言葉には、卑しめの意味が込められていました。

 さて、この頃、結婚適齢期にいた女性はどのような青春生活であったかと申しますと、男女の出会いはやはりお祭りでした。夏祭り、秋祭り、盆踊り、田植え、村の共同作業のボランティアなどが一番の出会いの場所であったようです。

 女性が初潮を経験すると、盆踊りの仲間入りが出来て、夜の盆踊りの練習に行くことが許されます。また盆踊りの準備や手伝い、本番ではもちろん盆踊りの主催者仲間として楽しむことが出来ます。田植えもお茶運びなどの下働きでなく、早乙女として、一人前に苗を植えることが出来るとみなされて、働き手としてあつかわれ先輩達に大人として生きる術をこうした共同の場で学んでいきます。

 共同の場でいろいろと耳学問をするようですが、ショックを受けたお話があります。女性だから伝える、女性だから心を引き締めて聴いたお話があります。こうした集団の場において自然体で女性だから知っておかねばならないことを、耳学問で学んでいくようです。

 *ホオズキや朝顔の鉢植えが風鈴と共に夏の風物詩として目に致しますが、このホオズキ、朝顔の種を煎じて飲むと堕胎薬となるそうです。

 *宿舎のご飯炊きをしているおばちゃんがそっと教えてくれたそうです。空腹でもお櫃のふたをうかつに開けて、つまみ食いをするとわかる仕掛けをしている。蓋の上に米粒で印をしている(お櫃の蓋に米で字を書いておく)。お櫃の蓋を開けると米粒が動くので、わかるのだそうです。

 *お嫁入り道具にはタンスの一番下は木綿で白のズロース(パンティー)、シュミーズ(下着)を出来るだけたくさん持っていく。嫁いでは買えない。下着に空間が出来るとそこは自分のおしめをつくっておくこと。倒れた時、老後の頼みで、おしめ布は買えないから若い時から要らない布を見ると繕っておしめにしておくこと。

 こうした雑談の教えは結婚した後、とても役立ったそうです。

 習い事として、お茶とお花のおけいこに数ヶ月なりとも、結婚が決まると大抵の人は地域で教えている人のもとへ通いました。習い事の1位は機織りでした。機織りは女の人は誰もが出来ました。

 松原には阿保の男前に三宅の「べっぴん」の言葉があります。「べっぴん」は美人と言うことですが、松原では働き者の意味になります。それで、機織りは娘時代から力を入れたようです。初潮をみると子守奉公はやめて、同じ奉公でも「行儀見習い」と称す仕事に就きます。「行儀見習い」はかつて「女中さん」と呼ばれていましたが、不適切語として「お手伝いさん」になり「家事見習い」「ヘルパーさん」と呼び名が変化していきましたが、「ヘルパーさん」の時代に入ると、日本の風習は消えています。

 風習とは、住み込みでその家の掃除洗濯、食事、訪問客の接待、その家の家族の世話など主婦がする仕事総てをこなしました。夜はお茶、お花、洋裁学校などへ通いました。長く勤めると、見合いなども世話をして嫁入り道具もきっちりして下さって嫁いだようです。


大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)