まつばらの民話をたずねて

松原の人々の一生

今月も成人の青春期から結婚までについての言い伝えなどを紹介します。例によって、俗信や生活習慣からくる非科学的や非文化的な行動など諸々の部分などふくめて、聞き取りした内容の中にはこんな事があったのかと笑える部分もあり、残念ながら笑えない部分もあり、人権上不適切な事項も多々あるかと思いますが、生活習慣風土が作った民俗のなせるわざとしてご理解下さいますようお願いいたします。

第49回 青春期から結婚まで-3  


4、結婚までの生活(戦中と戦後の復興期)  

見合いから結婚までの生活

 見合いから結婚までは、たいてい戦前は3ヶ月から半年くらいのようでした。それに対して戦後の日本復興期にあたる昭和20年代後半から30年にかけての結婚適齢期の女性は、見合いもありましたが、職場で知り合った人と恋愛結婚の形態も見られるようになりました。 

 この頃の結婚適齢期の女性は、戦前の風習と、戦後の復興期で新しい形が生まれて改革の時でもあったようです。私の年代は30年代後半から40年代初期に結婚していますが、採集によると30年代で、ウエディングドレスで結婚式をした人(恋愛結婚)に出会っています。但し、友人仲間では洋装で結婚式をした話は聞いていません。

 ついては、この年齢は戦後の復興期で、高校の進学率はまだ低い時代でした。母校の卒業名簿作成に関わったのですが、昭和25、26、27年辺りの名簿が旧制中学と、農業学校が新制高校となり編入年齢に変動があり、名簿作成に苦労した記憶があります。

 下記はこうした時代変換と経済成長期の結婚適齢者の姿と戦中の結婚適齢者の姿です。

1、 働きに行っていた人は退職し家の手伝いをしながら、茶道、華道、お針(洋裁、和裁)などのお稽古に通う。職場での女性教養講座及び夜間学校が活発していたようです。

 日本は教育に熱心な国民性だからと思いますが、昭和2、30年代は、女性は茶道、華道、お針は職場で厚生施設として、会社が指定日に先生の来社又は、先生宅へ出向き社員達は学ぶ事が出来る仕組みが発達していたようです。
 また男性は従業員数名の会社でも夜間高校へ通学する姿も多く見られたようです。私の知人は通信教育と夜間高校が一緒になった形の高校が紡績工場にあり、そこを卒業したと言っていました。
 また昭和30年代までは夜間大学もあって、当時の国鉄京橋、天満駅では、関西大学へ通う学生さんの姿が夕方になると、たくさん見受けたそうです。女性の姿もあったようです。

2、 行儀見習い、家事見習いと言って数ヶ月知人などの世話で親元から離れて家事一切を、住み込みで学ぶ。

 但しこれは、月謝を払うのではなくお小遣い程度でしょうか、そこの所は知りませんがいただいたのでないかと思います。「行儀見習いに行った。家事見習いに行った。」までは教えて頂けるのですが深くは採集していません。

3、働いていた人も、家の手伝いをしていた人も、親から家事一切を学び結婚までの数ヶ月を過ごす。

 これは、今のように婚家へ対して、なにかと実家の親が出向くことも出来ず、また実家へ帰りたい時に帰る生活習慣がまだ発達していなかったので、産みの親が我が子に対してしてやれる最後であり、子は実母へ甘える最後としての数ヶ月の暮らしを営んだのでないかと思います。(2、3は、戦中、戦後復興期共通)

松原ではありませんが、農地改革の時の出来事です。

 ある大地主の家では、ある家に多くの田畑を手放すに当たり、一束三文で田畑を渡すのは悲しすぎると、地主さんは自分の娘を、小作をしていたその家へ、嫁がせた事例があります。この女性が結婚後、箸より重い物を持たない生活から「朝は朝星、夜は夜星」の重労働へ一転した生活を送った姿に出会っています。この事例を筆頭に昭和30年代迄は女性の身分は低いと思っていましたが、この時代を生きた「女性の、自分も生き、子供時代も親の手をつかんで共に生きた精神の強さ」には、感嘆以上の物があったと痛感しています。

 次の事例は戦時中に結婚した女性だから、現在のこの生活があると感じた姿です。[事例1]の女性は昔から作っていた、日常生活で便利なものや吉、凶の小物、飾り物を私が雑談しながら教えてもらっている女性。[事例2]は、表に立って口を開かず、夫の後ろで控えている女性ですので、土地の民俗、歴史を含めてご主人さんから教えて頂いています。

[事例1]  現在の心模様。  70歳代後半女性

 「その頃は遠縁にあたるからと言われて、見知らぬ人の所へ嫁に行くのはめずらしいことではなかったし、私の場合は主人が戦争へ行くからって見合いしてすぐでした。見合いも形だけで、(嫁に)行くとか、行かないとかでなく、行くと決まっての見合いでしたから。
 結婚してすぐ戦地ですから。その時は辛いと思ったこともありましたが、私は百姓生まれですが鍬も持ったことがありません。ご飯もろくに炊いたことがありませんでした。私が姑の歳になって気づいたことは、百姓に嫁いで鍬すら持てない私を主人が終戦で帰った時には一人前の嫁に育ててもらいましたから、有り難く思っています。」と話されました。
 現在の生活は、日常生活の小物や飾り物を数え切れない多種類を作り、知人に差し上げることを趣味とし、現在息子達と同居せず一人暮らし。

[事例2]  現在の生活の姿。 70歳代半ば女性(美原・・丹南藩は松原に入れています)

 見合いが当然の時代に元庄屋へ嫁いだ女性の今日の姿ですが、このお宅へ伺ったおり、応接間に通されて抹茶をいただく程度の心地よい温度のお煎茶をいただきました。次にコーヒーをいただきました。話が終わる頃紅茶をいただきました。部屋を出る時、ドアの音で女性はすぐさま出てこられ、机の上のお菓子を包んで玄関で手みやげにいただきました。
 この時のタイミングのすばらしさと、飲み物の温度と、種類の配分。手みやげの渡し方に、[事例1]の言葉「姑に一人前に育ててもらいました」の意味がわかりました。
 見合いをしてすんなりと家庭の主婦に納まったようにみえますが、底深い日本女性の根性と優しさを、受け継いだ最後の世代かも知れないと、事例の女性の中に見受けることが出来ました。


大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)