183.頓随寺に宛てた河内屋の手紙

 

平野五郎兵衛(宗西)の「口上」(別所5丁目・吉川正章氏蔵)

平野五郎兵衛(宗西)の「口上」

別所生まれの五郎兵衛の両親のこと、盛岡へ移ったこと、老年になった五郎兵衛が享保4年(1719)に頓随寺にお詣りしたことを述べている。享保17年(1732)に末子の平野権蔵が書いた。

 

 

頓随寺の手洗石(別所6丁目・頓随寺蔵)

頓随寺の手洗石

大坂在住の河内屋喜右衛門(宗山)が享保21年(1736)に寄進した。

 

 

 

 

 

 

 

奥州・盛岡の平野五郎兵衛 享保4年、故郷別所に帰る

 別所生まれで、今は盛岡(岩手県)に住む河内屋、平野五郎兵衛は、元禄(げんろく)16年(1703)、氏神の熱田(あつた)神社に「熱田大明神」額を奉納しました(「歴史ウォーク」182)。

 五郎兵衛(ごろうべえ)は、伯父の平野慶西(けいせい)と宗春(そうしゅん)が盛岡に移っていたので、17歳の時、奥州(おうしゅう)に下ったのです。しかし、故郷忘れがたく、老年になった享保(きょうほう)4年(1719)、別所を出て初めて、生所に戻ってきました。その時、檀那寺(だんなでら)である頓随寺(とんずいじ)(真宗大谷派、「歴史ウォーク」111)にお詣りし、のち同寺に手紙を宛てました。それは、次のように「口上(こうじょう)」とあり、五郎兵衛家ゆかりの吉川正章さん宅(別所五丁目)に保存されています。

 享保17年(1732)4月28日に、五郎兵衛(宗西(そうせい))の口述を、末子の平野権蔵(ごんぞう)が書いたものです。

 口上

一、拙者儀(ぎ)元来(がんらい)当所出生之(の)者(もの)ニ而(にて)/親者(は)津村西了(せいりょう)母妙慶(みょうけい)ト申者/御座候(ござそうろう)然者(しかれば)伯父平野慶西同/宗春ト申(もうす)両人先達而(せんだって)奥州南部(なんぶ)/盛岡ヘ罷下(まかりくだり)住居仕(つか)罷有候依(よっ)テ其/控(ひかえ)ニヨリ拙者茂(も)拾七歳之時罷下/同居住仕候尤(もっとも)両親存生(ぞんせい)之砌(みぎり)五七年/之間ニハ罷登之所両親茂相果(あいは)テ/已後(いご)既及老年享保四年亥(い)歳/最早(もはや)古郷(ふるさと)之暇乞(いとまごい)ト存罷登両親之/志(こころざし)等当寺相勤(あいつとめ)罷下候已後共両/親之年忌(ねんき)之志等従南部為差登/御当所依々相勤来候然所(しかるところ)/不思議ニ当年迄存命仕(つかまつり)此度(このたび)/京御本寺(ごほんじ)様ニ而/一如上人(いちにょしょうにん)様三拾三回忌(き)之御法事/御執行(しゅっこう)被遊(あそばされ)ニ付何卒(なにとぞ)老後之/思出ニ奉祭度子供依介抱(かいほう)罷登候/依而当所ヘ茂罷越当寺江(え)茂/参詣仕難有次第奉存候依テ/正面之御彫物并両脇格子(こうし)殊(こと)之/外(ほか)古ク罷成候間及老年三百里/之遠路罷登候印迄ニ金箔(きんぱく)/寄進再興仕候然共(しかれども)此旨(むね)趣/書残シ候義名聞之様ニ御座候ヘ共/全左様(まったくさよう)之所存ニ無御座候只(ただ)為/後縁ニ申残計(ばかり)御座候已上(いじょう)

                                           奥州南部盛岡

                                                    河内屋

                                                     平野宗西  

  享保十七年

   壬子(みずのえね)四月二十八日

河州別所村

   頓随寺様 

         筆者宗西末子             

            平野権蔵         (注:/は改行)

 

 五郎兵衛は、父の津村西了と母の妙慶が亡くなり、自分も老年となったが、享保4年、京都の東本願寺で十六世法主であった一如上人の三十三回忌が行われたことから、父母の供養もあり、本山と別所を訪れたのでした。子供に介抱してもらいながら、これが最後の故郷への暇乞いともなったのです。

 頓随寺の本堂に上がると、欄間の彫物や格子が古くなっていたので、金箔を施した彫物などを寄進したと記しています。

 この記述に関して、欄間に「宝暦(ほうれき)六丙子(ひのえね)七月日 施主大坂上難波(かみなんば)町 河内や宗山(そうざん)」と書かれた彫物が現存しています。五郎兵衛宗西と大坂の河内屋宗山との関係はよく分かりませんが、宗山も別所出身と思われます。彼らが、享保4年や宝暦6年(1756)に、欄間を寄進したのです。

 宗山は、熱田神社にも元文(げんぶん)2年(1733)に石鳥居を、また宝暦10年(1760)に常夜燈(じょうやとう)を奉納しており、河内屋喜右衛門(きえもん)の名でも知られています。

 頓随寺本堂前に、手洗石が残されています。そこに「享保丙辰(ひのえたつ)歳正月吉日 施主 大坂河内屋喜右衛門」とあり、享保21年(1736)に、宗山が寄進したものです。

 河内屋の人々は、熱田神社とともに、頓随寺にも寄進を行い、故郷を偲んだことでしょう。