まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられる民話をご紹介します

 

墨の江街道の民話と松原‐18  松原の民話 第141話(2013年1月)

墨之江街道近郊の人達から聞いた心の語り行基(3) 

1.高見の民話が継承された生活

 『高見神社と、なもでおどり、血盆経』『高見神社と、履中、反正天皇と、墨之江の乱関係民話』『高見地域住民の生活と語り』『行基民話、極めつけが門付けの語り文学です。

 「説教節」「淡島様」のように本格的なものは、明治生まれの天美の男性からのみ採集で、この街道では採集しておりません。これは松原のみに絞っての採集が、昭和47年あたり、40年代の後半からですので、民間伝承、民間話が中心となっており、口頭伝承は「淡島様」位で、説教節になると、天美の古老以外には同じ天美の女性が一人です。

 彼女からは他に山椒太夫でなく説教節の「さんせう大夫」を採集しております。内容は説教節でしたが、一緒にいた人達から「惨すぎる」の言葉がはいり語り手が、口を閉ざされました。しかし一緒にいた人の中で「私が聞いたお話も、こんなんだった」と言われたので、伝承されていた事は確かです。(説教節を「さんせう大夫」 森鷗外作を「山椒大夫」と分けています。説教節は元来は経典の講義の方便として伝説等に脚色を加え佛教声楽を基礎に発生。他に小栗判官等) 

 「あわしま様」は大正から戦前生まれを併せると、ほとんどが知っていると採集。(松原は戦前布忍、三宅に(天美もと言う人もいる)アメリカとの交換人形あり、敵国になり全国の人形が焼かれる中、布忍は平和の使者として隠したが焼かなかったと聞いたが立証はない。百年以上の小学校が3校あり)この事は教育の高さを示し、記紀伝承の保存にも影響されたと思われる。

 大正から戦前生まれの人は、「ワッハハのえべっさん」「河内万歳」「江州音頭」など街道の発達した松原の特色も手伝って、多く人々に浸透していた。「ワッハハのえべっさん」は住吉や堺のえべっさんでなくても出来るから、大阪や平野の人でも「器用な人なら正月の小使い稼ぎになるかもなぁ」と笑い、残念にも、人形使いの服装を聞きのがしています。

(注)あわしま様は血盆経を含めて高見ではどのような分布で伝承されているか採集しました。(採集方法は、ふるさとぴあプラザで講演や河内木綿講座及び織物講座出席者達と交流雑談。) 

 ついては、私の民間生活メモ帳によると、昭和48年10月薬科大学へ白い服を納めている隣のおじさんが、白い布の価格が朝と夕方では価格が高くなっていたと話していた。11月の欄には、石鹸が突然店頭から消えたとあり、やがてトイレットペーパーが消えました。

 この社会現象は、物価や土地価格の上昇を生み、松原の農耕生活主体の生活がどんどん消え、田畑に家が建ちましたが、それでも高見では、道端には行基さんの薬や記紀伝承、民話伝承の草花。『どつぼ』も蓋が閉まった形で残り、今でも民話の世界を彷彿させてくれています。

 また、大きな池は公園などに開発された中で、高見は祖先の池を存続し、池の水上にスーパーや郵便局、商店など建てられて、大切に保存されています。『記紀の国松原』。『記紀伝承地の高見』ならではの民話の源風景が残り、風俗習慣、古代から栄えた土地を示す神社仏閣が自然体で残り、文化の地の誇りと歴史風土、生活習慣が、自然体で同化しています。

 その一つに12月に入ると伊勢神楽のお獅子さんが例年一軒一軒回って、穢れを払って下さいます。我が家も昭和47年から毎年、玄関、台所へお獅子さんが舞い、子ども達の頭を咬み、結婚で松原を離れた娘は、孫の下着を持って来る事が、当たり前に残っている松原だからこそ、どこにいても10分も歩けば、必ず神社、寺、道標、御地蔵さん、祠などいくつかに出会い、時代を超えた草や風習の伝承と向かい合う事が出来ます。

 高見の古代から先祖代々が守り伝えた心が、今の語りの神髄継承なのだと思っています。

2.近鉄大阪阿部野橋駅から高見(駅名―高見ノ里)迄
(1)近鉄大阪阿部野橋駅から大阪と松原の境界大和川まで

 近鉄南大阪線大阪阿部野橋から、各停電車で23分。車中にて、進行方向左側を見て下さい。一駅目は阿倍野の風景、2駅目からは金剛連峰山並みが続きます。やがて金剛の山並みが裾野へと変わると、今度は裾野の向こうから高見の記紀民話の二上山の山並みに変わり、一駅、一駅で心を癒やされながら、大阪市最終の駅「矢田駅」に着きます。

 ここからは右側へ向きを変えて見て下さい。松原の先祖が命と汗と涙を枯らして、幕府と「大和川、川違え反対」と懸命に訴えて闘った、松原方の城連寺、芝、油上の人達は今も当時の苦しみを、時代を超えて当時の姿の語りが受け継がれて、黙々と流れている大阪最大の人工河川「大和川」です。この姿は、源九朗狐を先頭に人間も動物も共に幕府と闘う姿や渦を巻いて流れる川に飛び込んで赤ちゃんを助けた耕助狐の話など沢山の民話が伝承されて、今はトクトクトと流れ、昼間は緑の鎮守の中を縫うように流れる姿を見せる川に、太陽が沈むころになると真っ赤に染まった天と地が一つになって、息をのむ絶景を見せてくれます。

 今は緑の繁る木々と次々出来た橋が重なり、行基橋へ沈む太陽は見えなくなりましたが、おのずと手を合したくなる絶景でした。埴輪になった白馬などで紹介している話がよみがえる光景です。(白馬が人間の欲の為に死んだ栗毛の名馬を背に大和川から堺の海へ沈む太陽の中に入って、消えていく姿が語られている話。この話の語り手は、「私は朝の真っ赤に登る元気なお日様と、夕方の白いお日様に手を合します」と話していました。

 夕方のお日様は天を焼き尽くす程の赤いお日様と、静かに消える白いお日様がある事を語り手に教わりました。記紀民話の伝承地、松原に住む人だから言える、民話の語りと生活を感じました。

 この大和川から、松原へ向かって右側の窓から見える記紀民話の伝承地である事が信じる事の出来る光景が目に移ります。そして行基ゆかりの地河内天美駅から、神を迎える儀礼の発祥地布忍駅へそして次が、高見となります。松原に神々が今も住み伝承が残っているのは、鎮守の森、庄屋さん宅の楠木など、住宅地に神様が遊びに来る事の出来る依代(よりしろ・・・神霊がよりつくもの。生活の中では正月の門松。天と地のかけ橋)が自然体で残っていることに気がつく事と思います。

 次回は天美、布忍、高見です。

 

  大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)