182.盛岡から奉納された熱田神社額

熱田大明神の額裏書

熱田大明神の額裏書(別所5丁目・吉川正章氏蔵) 

寬保2年(1742)。文末に、五郎兵衛が五郎八の文字が傷んでいたので、補修したと注書している。

 

熱田大明神奉納額

熱田大明神奉納額(別所6丁目・熱田神社蔵) 

けやき材。たて68cm。よこ40cm。実物は別に保管し、現在、拝殿に掛かるのは複製品である。

 

 

 

 

 

 

 

 

故郷別所の氏神を崇敬した盛岡、 河内屋・平野五郎兵衛

 別所六丁目の熱田(あつた)神社は、日本武尊(やまとたける)を祭神とする別所地区の氏神です(「歴史ウォーク」38)。南面する鳥居をくぐって拝殿に進むと、

   奉納 元禄(げんろく)十六年正月吉日 熱田大明神 奥州南部盛岡(おうしゅうなんぶもりおか)之住平野五郎八生年十二歳書

と書かれた額が掛けられています。

 江戸時代前半の元禄16年(1703)正月に、盛岡(岩手県盛岡市)の平野五郎八が12歳の時、神号を書いたというのです。なぜ、別所の鎮守の森に遠く離れた奥州盛岡の住人が、額を奉納したのでしょうか。その答えは、熱田神社近くの吉川正章さん宅に残る「熱田大明神の額裏書」に次のように述べられています。 

表面の神号は予(よ)か父幼年の筆跡なり祖父は/もと当地の産若年にして奥州に罷下(まかりくだ)り南部/盛岡に住し業を起して今に仕(つか)う祖父/つねに生所の神恵の得(える)事を尊へり故に/父か十二歳の時これを書しめはるかに三百里の行程/を経て此社(このしゃ)に納奉予今年始て祖父か故郷を尋/来て先こゝに詣(もう)す即(すなわち)此額を見て或は喜ひ或は/いたむ紙上の文字年久しき故に破損多し愈(いよいよ)久/して終に失なん事をかなしむ因而(いんしこうして)今板に彫しめ/なかく祖か意を全(まっとう)せんことを欲す庶幾か後世/子孫又爰に来し時こゝろよく拝せん事をと/云爾(うんじ)

 寬保(かんぽう)二壬戌(みずのえいぬ)夏五月日

   奥州南部盛岡之住三代目

    平野五郎兵衛宗保 花押

表面左右の細字甚た(はなはだ)し写とらざる故に予是を補う者也         (注:/は改行)

 すなわち、寬保二年(一七四二)五月に盛岡に住む平野五郎兵衛がこの額の由来を記した通り、父の五郎八が十二歳の時に書きましたが、それは祖父がもともと別所の出身で、若くして盛岡へ下って商売を起こしたこと。

 祖父は常に別所の氏神を敬っていたので、この額を奉納したこと。

 額裏書を書いた五郎兵衛は寬保2年、初めて別所を訪れ、熱田神社に詣でて奉納額に接し、傷んでいたので、補修して今に残る木板に字を写して彫ったこと。

 今後は、後の世まで子孫が同社に参拝したおり、心から額を拝むことを述べています。

 五郎兵衛の祖父は、初代五郎兵衛を名乗っており、もとは別所の津村清助(せいすけ)家の出身で、同家はのち吉川姓に改めました。

 吉川家が所蔵する初代五郎兵衛の「口上(こうじょう)」(享保(きょうほう)17年・1732年)などによると、津村清助の子であった五郎兵衛は17歳の時、盛岡に下向し、のち河内屋あるいは平野屋と号して、平野姓となり、河内や摂津からも縁者を呼び寄せ、酒の醸造業で成功しました。

 なお、盛岡の五郎兵衛家以外にも、やはり河内屋と称して大坂の上難波(かみなんば)村で商売をする家系もありました。神社入口の鳥居に「奉献上  元文(げんぶん)二巳(み)年  願主大坂河内屋喜右衛門」とあったり、拝殿前の常夜燈に「常夜燈  宝暦(ほうれき)十庚辰(かのえたつ)歳五月吉日  願主河内屋宗山  大坂上難波村」と記したものがあります。上難波に移った喜右衛門(宗山)も、元文2年(1737)や宝暦10年(1760)に故郷の氏神に寄進を行っています。

 それぞれの河内屋は別所から奥州や大坂に出ても、鎮守の森をいつまでも、心の拠りどころとしたのでしょう。