まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられる民話をご紹介します

 

墨の江街道の民話と松原‐11  松原の民話 第134話(2012年6月)

墨之江街道近郊の人達からの記紀土着民話(2) 

1.語り手達の雑談と素養の語り

語り手は133話に同じです。

 (注1『天満ころいち』と言う唄がありますが、この唄は大阪府全般に唄われています。
 もちろん松原でも唄われたようですが、ここで女性が唄たったのは高音で7音階でした。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      しかし私が採集している唄とは音階が違いました。語り手に聞くと偉い先生に教えてもらったとの事(アカペラで口承でなく、音楽として教を受けたのだと思います)私が採集した天満市を唄うと、「そういえば、(注2なんでか、なぁ。子守唄では唄わなかったけど(注3『一人植え』の時、唄ったよ。(注4そないに」との事。そこで話が盛り上がり、(注5『天満ころいち』と『賽ノ河原』を採集しました。どちらも子守唄の分類になりますが、一人でする田植えのときに唄ったそうです。但し田植え唄としてではなく、自然体でこれらの唄が口をついて出てくると言った形態であると思われます。

(注1) 『天満ころいち』は松原で採集した唄の題名です。
 『天満市』の題名は大阪城から天満へ向かって河川敷を歩いた時『天満市』の石標があり、♪♪ねんねんころいち天満市よ/大根揃えて/舟に積む/以下略♪♪と石に唄が刻まれていました。(平成10年頃)。松原の天満ころいちの唄は♪♪てんまぁ__ころいち てんまぁあの いちぃへーーと唄う。
 この唄の題名は松原全体で調べたわけではありませんが、活字になったものでは石標のとおり、「天満市」又は「天満の市」とあります。

(注2)・・・なんでか、なぁ・・・ どうしてでしょう

(注3)一人植え・・・松原は綿の産地でした。綿はどんな苦境にも耐えて育ちました。(水の少ない土地、痩せ地でも作れました。また水で流されるかもしれないが河川敷でも作れました。土地の持っていない二男三男達はこうした所を耕し、村民の雑用を引き受けするなどによって暗黙の了解を貰っていたと思われます。この姿は、狐話しとして継承されています。三宅の『土居の川の狐』『一里塚の耕助』の民話をもう一度、目を通していただけると、狐の姿を通して二男三男達の姿が想像できます。(土居の川の狐は村の小間使をし、耕助は毎朝三つ鍬を担いで大和川の畑へ行く話です。狐に置き換えて、彼等の生き方を語り継がれたものだと大切にしています)
 松原では、土地を有効利用するために、畑に畝(うね)を作り、高いところは綿を植え低い所へ米を植える農耕技術がありました。語り手は、畝の下側で田植えをしたと言っているのだと思います。ここでは、『天満ころいち』や『賽ノ河原』は田植え唄というより『口ずさみ唄』と言えるでしょう。松原に「一人植え」の単語はなく、用語です。この時の即興言葉かもしれません。

(注4)そないに…そのように(私が唄ったように)

(注5)松原の唄は河川、池、の民話後に連載します。(近畿民俗104、105、百唄程註釈付きで発表していますが、現在はその二倍の採集があると思います。これらの唄は、唄えますので、きっと唄が連載出来る頃は、音声でもお伝えとなり、松原の土着民話と同様、歴代松原の生活者だから知る。
 またアカペラでなければ味わえない二音階から五音階の唄で、松原では説教節や淡島様、地蔵和讃などの門付けの語り唄が日常生活の中にあり、松原ならでは、アカペラならではの、音程と唄を持った松原の唄をご紹介出来ると思います。

2、神様の天皇はんが、人間になった 

語り手と採集日は133話に同じ。(反正天皇をはんぜいと言わず、はんしょうと言う年代の人達)

 ああ!高見から、昔の中高野街道へ入る道の事ですわなぁ。知ってます。あの道を通って、高見神社の神さんが、反正天皇はん、の所へ通い妻してましたんですわ。昔は、反正天皇はん、は神様でした。天皇陛下も先祖が神様だったので、神様でした。けど戦争が終わって反正天皇も今の天皇も、みぃーんな、人間になりはりました。けどなぁ、思いまへんか、仁徳天皇はんは堺に墓はあるけど住んでなかってん。そやよって、戦争の時、堺を助ける事が、(注1でけへんかったのですわ。反正天皇はん、は松原に住んでいて、松原で神さんになってたので、助ける事が出来たのですわ。戦争が終わって、堺から、大阪から、食べもんが欲しい言うて、着物や茶碗を持って来まして、な、私は子供が嫁に行くときに、って思って着物を貰って米や麦やお福豆や色々持って帰えしましたわな。人は(世間の人や学者など)どない思いはるか知らないけど、私は(反正天皇を)神様やとおもっていますわなぁ。柴垣神社にいやはるのやと思ってます。今の天皇さんはもう神さんではあらしましぇん。そない思うてます。どないおもいはります。間違ってまっしゃろか。

(注1)でけへんかったのですわ。てできなかったのですよ

3、「古道と水路の都、松原」(1)と高見の神社参道を横切る清流水路

語り手と採集は133話に同じ。 と、語り手 高見の里在住女性。昭和17年前後生まれ。採集日平成22年からの採集メモ帳より他、

 高見神社あたりの話って、か。私の子供の頃はぎょうさん池があってな、池から池へつなぐ水路は村落をつなぐ環濠のように流れていた。神社傍にある弘法伝説井戸な、あこに寺があってんや。]むかーし、やで。それで伝説の井戸は総井戸だったんや。近くにも井戸があったがどことも金気が強かった。松原の古代からの道は有名だけれど、狭山池から流れる西除け川、東除け川は、昔は船が大和川へ向かってたっぷりと綿を積んで下っていた。今でこそ、信じられない風景やけどな。西除け川から高見の駅へ向かって流れる清流で茶碗を洗い野菜を洗う姿。大和川を花嫁や嫁入り道具を積んだ船と、その船を追うように走る子供達の姿はもう、信じられへん姿ですわ。あんさん(著者の私)かて「池と川と古代道の都、松原」って言うてますや。

 次回は、水路を環濠と見立てた豪邸の話など。

 

  大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)