まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられる民話をご紹介します

 

墨の江街道の民話と松原‐1  松原の民話 第124話(2011年8月)

(1)住之江街道と墨之江街道の文字表現

 今回から中高野街道沿いの民話が終わり墨の江街道の民話となります。

 墨の江街道は住の江街道の間違いでないか、のご質問をいただく事によく出会いますので、違いを、はじめに説明させていただきます。

 私は民話部門ではおおむね墨之江街道を使用しています。もちろん、この街道沿いの民話を紹介しておりますと、住の江の字で統一をすべきでないか、との案をよくいただきますが、この道は、同じ道でも、全く違う性質、用途、伝承、時代の異差を持っています。道の用途に基準線の性質を持っているものがありますが、この道もまた、(注1同様の性質を持っている事や、古墳時代以前から、また記紀の時代を彷彿する語り伝承と、千年以上の歴史をもって庶民生活の中で受けつがれて、今の時代まで語り継がれたお話が多く持った道でもあります。

 それゆえに、墨の江街道、墨之江街道。住の江街道、住之江街道と使い分けております。おおむね、記紀の時代は墨之江を使用し、室町辺りからは住之江の使用が出てきます。また「の」と「之」の、違いは「の」の場合は、単純に名称としての用途で使用しています。例えば「墨(住)の江街道の民話」のようにお話の内容に追求がなく、誰にも親しまれるように、といったときは、表題などに使用します。それに対して「之」は街道に重みがあり、街道の物語や説明がなされる場合などは、大抵はこちらの「之」を使用しています。

 ここで書いている松原の土着民話は、「むかしむかし」からはじまって「あったとさ」で終わる昔話形式でなく、石臼を引きながら、また豆のより別け仕事をしながら、子供達とあやとり、てまり、などで遊んでやれずとも、口なら動かせるので、仕事の手を休めることなく、親は子へお話を語り、また子供を寝させながら、夜なべ仕事と共に、土地で起った出来事や、物のいわれ、いいつたえなどが主流になって語り継がれました。こうした語りを、ここでは、文字に置き換える時、カタカナ、漢字、ひらがな等の使用や点や丸の打ち方の統一などで土着性や分類の仕分けが出来るように心がけて、文字(漢字、平仮名、カタカナ、旧字)を使い分けしつつ、口で読み伝えられたお話を一人一人お会いして、耳で受け取り、文字に替える作業をしたものです。

(注1)他の道と同様の性質・・・大津道(長尾街道)が、丹比道(竹之内街道)の基準線であったように、住之江街道は豪族(多治比一族)対朝廷一族(阿保)の基準線となっている。阿保親王の居住地である田井城から阿保地区にかけて「蝮の出ない松原」のお話があります。歴史を民話伝承から分析すると、阿保親王が、蝮が出ないように藤井寺の観音様へ願掛けをして、蝮を封じた話があります。このお話は、まむしは蝮と書いてタジと読むことから、阿保親王の時代は、丹治比一族と互角の力をもち、互いを抑えるだけの力を持っていたと考えております。そうしたことから住之江街道を基準線として、南北に勢力の分布があったと考えられる民話が存在します。

 

(2)住之江街道と墨之江街道の道

 住之江街道の道はどこからどこまでと、はっきりとはわかりませんが、住之江街道を昭和にはいってからも、数年間に渡り、秋祭りには高見台楽が、祭り唄を歌って、練り歩いたようです。しかし、日本はどんどん戦争のぬかるみへと進み、やがて、祭りはなくなりました。以後、台楽の復興には時間がかかりましたが昭和56年に新しい台楽と新しい台楽唄が復活しました。

 ついては、(注2台楽を引きながら唄う唄が旧うたにありました。その唄に道が載っています。その唄は、今はすたれてしまいましたが、のこっている部分をひろいあつめ、道をつなぎました。

♪♪小村なれども 高見の村は/ 昔なぁ― 天領の 誇りあり/ 高見はなれて 早や反正山(はんしょうやま)/ 

ここはどこかと 巡礼に聞けば/ ここはなー 五番の葛井寺(ふじいでら) / 高見はなれて はや追分や / 

向こうに見えるは 布忍橋 / ここは住吉 代々神楽(だいだいかぐら)いつもな―絶えせぬ 鈴の音/ ♪♪

と、集めました。ここは住吉代々神楽とありますが、この住吉代々神楽は、住吉区にある住吉神社ではなく西成区玉出にある生根神社であると思います。残念ながら、私へ語って下さった、高見台楽の語り部さんはもう全員お会いできない年齢となってしまいましたので、もう一度、30年前の採集を思い返しつつ、書いていきます。

 上記の唄によると、高見から、反正山を通り、柴垣神社、大塚山古墳を通過して葛井寺を通過すると住吉街道から長尾街道へ道を移し、追分へと歩いたのでないかと思います。追分まで来れば布忍橋はすぐそこ。布忍橋を渡れば住吉は近い。この様に歩いたのではないか、もちろん藤井寺からもと来た道へ帰ってきたかもしれませんが。

 大阪の秋祭りは地車(ダンジリ)です。台楽は京都ですが、大阪府下では、堺(今はない。堺博物館に展示している)と高見(今は使用してないと思う)、生根神社のみでないかと思います。この道を私は住吉街道と住吉の字を使用しています。

(注2)台楽(だいがく)・・・日本では博多台楽と京都台楽有名

 

 墨之江街道は、墨之江の乱から、この字を当てています。この街道は難波の宮から南下し依網池(よさみいけ)油上、高木あたりから斜めに長尾街道へ入り、布忍東側商店街の終わりの所を斜めに高見へ向かってはいると高見神社へ着きます。この神社の道を東へ行くと新堂に入り、ここから竹之内街道へ又は、ちぬの道へと向かう斜向線道があります。この道は墨之江の乱で履中天皇が逃げた道であり、履中天皇は反正天皇にこの斜向線道を事前に教えてもらっていたのでないか。大きな謎を持った道です。

 

 

  大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)