まつばらの民話をたずねて

松原の人々の一生

今月も死についての言い伝えなどを紹介します。例によって、俗信や生活習慣からくる非科学的や非文化的な行動など諸々の部分などふくめて、聞き取りした内容の中にはこんな事があったのかと笑える部分もあり、残念ながら笑えない部分もあり、人権上不適切な事項も多々あるかと思いますが、生活習慣風土が作った民俗のなせるわざとしてご理解下さいますようお願いいたします。
 

第88回 死期へ向かう道程-4 

(1)この世とあの世とよみがえり

 時代が昭和40年から50年代に入るあたりからと思いますが、死を病院で迎えるようになりました。それまでは病に伏せている人が冥土からの迎えが来るのでないかと予想された1週間ほど前になると、入院者は病院側から身内に死期を知らせ、退院日を決め自宅療養者は身内への連絡などを指示し、医者は脈とりへ夜中でも出掛ける事の出来るよう心を配られていました。こうした形で大抵は自宅で死を迎える事が出来ました。

 あちらこちらに住んでいる身内の者が見舞いだといって帰って来ます。病院から家へ帰った事や身内の者が自分のために帰って来てくれる事などにより自分の死期を知り、特に会いたい者を名指しして「○○に会いたい」とか「△△には知らせてくれたか」など、言って最後の別れの準備の姿を自然な形で生活の中で体験するいとなみがありました。

 そうした中で、私の経験では、死というものに対して恐れや全身をゆるがす哀しみよりも、なにが、どこがと指摘出来ないが、そうした1週間から10日程度の日々に対して、幼子は幼児なりに、成人してからは成人者の経験として、荘厳さのある日々を全身に感じていました。そこにあるものは、泣き崩れ体を揺り動かし感情を全身に打ち出すのではなく、行き場がなく出来れば、人目に見えない所で仏に手を合したい衝動を感じました。その衝動は何に対して何を意味するのか答えを持っていませんが、どこかで『よみがえり』の思想が自然体で私の体の中で培われていたのでないかと、経験をもとに思い起しましました。

 ついては、こうした生活が営まれた背景には、松原の人々の『思い』という狭いものではなく、日本の庶民が持っている生命に対する『思い』の中に「生命のよみがえりの思想」がありました。人は必ず死ぬ。物体も人間、草木魚貝鳥、全て無(死)となる。そして「よみがえり」によって再生が成り立つという考え方です。
 これは輪廻思想が庶民の中で哲学的思想を除外して、土地に相応した形で庶民生活の中に長い年月をかけて溶け込んだ考えが思想としてではなく『思い』として体内に備わった思想的感情と思われます。死とは単に消滅する事ではなく、神の国である「この世」から仏の国である「あの世」へ行ってよみがえりのために色々な難行苦行を終えて「この世へよみがえる」と言う思いです。よみがえりの思想を題材にした、寝させ土着民話を幼い頃に愛媛県南部で母から聞いています。(寝させ土着民話・・昔は子供の就眠において母は子へ土地に伝わるお話を語りながら添い寝の形態で子供を寝させた。)

[よみがえり民話事例] 

 土佐(高知県)の分限者(金持ち)の家に汚れたボロボロの法衣をまとった一人の僧が一杯の水を所望して門前に立った所、ちょうどその家の主(あるじ)が出てきたが、余りに醜い姿に一杯の水すら与えず犬を追い払うように僧を追い払ったそうです。

 ところがこの日を境に孫が原因不明の病になり今まで順調にいっていた仕事はなぜか何をしてもかみ合わず、次々と不幸な出来事がおこってくるので、主は、はたと気がついた。「いつぞや水を所望した僧は弘法大師様に違いない」と思うと、自分の傲慢さを深く反省し遍路となって八十八ヶ所をお詫び行脚へ出かけ難行苦行をきわめていたそうです。一方土佐では、主の心根が通じたのか、孫の病も癒され、商売も活気満ちた生活が戻っているとの風の便りを聞いて安堵し、長い行脚修行で疲労の重なった体を奮い起して、我が家へ帰ったそうです。

 しかし、疲労は限界にきており、家にたどり着くなり床に伏せ、やがて仏の国から御呼びを感じた主は、家族を呼び寄せ「私は必ず生まれ変わって帰ってきます。私である証拠に死後、手に石を握らせてあの世へと送ってください。必ずやその石を握って私は誕生します。誕生した暁には、どこかの寺の軒下に捨て置いてくれ。仏の国で学んだ修行を通し世のため人のために尽くし心の病、身の病とあらゆる病を救う修行者の人生を努めたい」と言って永遠の眠りに着いたそうです。

 時が経ちこの出来ごとを世間も忘れかけた頃のある日、握らせた石を持った男子が誕生したという語りが受け継がれています。

 同類の話が伊予(愛媛県松山)の石手寺縁起として残っています。土佐と伊予の民話関係は調べていません、しかし石手寺の近くから土佐へ向かうバスの道があったと記憶しています。

 松原の事例を持ってないので、松原以外の私的な事例になりましたが、全国どこでも発生する要素を持った民話であり、日本人が持っていた心根であろうと思われます。採集は昭和20年代前半。 土地の人は県名より伊予、土佐と呼ぶのが土地の人の通常の呼び方でした。

[よみがえりの談話事例]

 昭和の時代迄は、世間は地縁を大切にしていましたので、葬儀、出産、婚礼、祭り、講等は村落で生きる人達にとって大切でした。中でも暗黙の言葉の深さ、重み、心使いは親から、学校で学ぶものではなく、地縁の中で叱られ、ほめられ、恥をかき、笑い、泣きながら一人前に土地の中で学び育てられるものでした。それゆえにその場その場で言うべき言葉、雑談のルールの様な物がありました。
 例えば葬儀、出産、婚礼の当事者をほめる談議は、農作物、祭り、子供達の事、講はおかげさん談議とそつなく交わされていました。

 特に「松原の人々の一生」の初期の部分に書いております通り、出産すると親戚縁者が次々と出産祝いにやってきます。
 そうした時の光景の一つに「子ほめ」談話がありました。「まあ、なんと目鼻立ちのしっかりしたお子やこと。出世顔というのでっしゃろなぁ」「さき程も、そない(そのような)話をしていたところですわ。ほら御大尽さんになりはった○○さんに似てしましぇンかぁ」「ほんまにぃ!○○さんに目のあたりそっくりだすわ。○○さんの生まれ変わりかもしらしましぇんなぁ」等と他界した身内の人達の名前を出して雑談する光景がありました。出産時に、赤ちゃんがあの世からこの世へ帰ってきた事を示す会話が交わされていました。特に子ほめ談話は、折に触れ日常生活でも交わされました。

 

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)