まつばらの民話をたずねて

松原の人々の一生

今月も死についての言い伝えなどを紹介します。例によって、俗信や生活習慣からくる非科学的や非文化的な行動など諸々の部分などふくめて、聞き取りした内容の中にはこんな事があったのかと笑える部分もあり、残念ながら笑えない部分もあり、人権上不適切な事項も多々あるかと思いますが、生活習慣風土が作った民俗のなせるわざとしてご理解下さいますようお願いいたします。
 

第80回 死への儀礼へいざなう道程-2 

(1)死へ向かう人々 (2)厄を生きる

(1)死へ向かう人々

 死へ向かう人々の姿は、核家族の現状と病院で死を迎えることが、生活の基盤となったことに慣れて、不安や疑問を感じなくなった現在を生きる人々には、
1、人間が少しずつ、少しずつ衰えていく姿とその先にある人間関係。
2、死に土産として残していく言葉や品物の伝承、伝言。
3、死後になって迷惑をかけなくて済むように整理をしていく生き方。
など、こうした次世代へ継承する教えや生きる姿を学びながら、衰えていく肉親縁者や近隣の人達と、いかに関わって行くのか、どのようにすることが手助けになるのかの関係を身につける機会を失い、教えてくれる世間とのかかわりも気薄になってきました。そうした中で私達は相手の心を「おもいやる」心を同情的感覚などで、捉え、また捉えられて生きる方向へ傾いてきた現状の中で、必ず『死』を迎えます。

(注釈・おもいやる=相手の気持ちを自分の心に置き換えて、頭で考え思うのではなく、置き換えた心で考え思う事。)

 今まで書いてきた通り、人生の最終地点である死を迎えるまで色々な出来事がありました。そこで示したように、人は誕生から死までを一生とし、その中に節目を作りました。

 節目は誕生から始まって学校へ入学、結婚、出産等々いろいろある中で、一人一人に違った節目も持っています。免許を貰った。趣味として頑張っていたものに賞をとり、プロへの道筋を作ったなど、色々あると思いますが、そうした節目とは別に、神仏もかかわった儀礼としての節目があります。それが、『厄』です。人生のうちで数え年の何歳には、神や仏の前で、ある時は親兄弟、ある時は村落共同体も含んで、しなければならない行事があります。その行事は人生の節目に作られた年齢で、人々は決められた年齢に、その節目を乗り越えて生きてきました。この節目の年齢を『厄年』と言います。

 人の一生の中に厄難のある歳が決められ、その厄難の歳にはいると忌み慎まねばならない思想があります。この思想は、安倍晴明で名の知れている陰陽道の説が民間に広がったものであると言われています。八卦の忌み方からきています。「八卦の忌み方」とは、人の一生において八卦の八方位といって、人は数え年の年齢で、その方位がきまっており、凶方には遊年方や禍害方があり吉方には生気方、養者方があります。厄はこの凶方の歳周りに入っています。

(2)厄年を生きる‐1

 最近一般に厄年は、数え年で数えて、男性は25歳、42歳、61歳。女性は19歳、33歳、37歳となっています。中でも男性の42歳と女性の33歳は大厄といわれ、その歳の前後を前厄、後厄として前後3年を厄とすると考えられています。

 つきましては、今から書く厄については、厄を集中採集した昭和58年代から平成13年迄集めたものを土台として書いていきます。この時、厄年の言葉を見聞きしたことがありますかの質問に対して、だれもが『ある』と100%当然のように答えられました。
 その内訳の中で、若者たちの回答をみると厄年を体験した人は「道で善哉をふるまわれた」「親、及び周りに厄の人がいた」といった回答でした。今回新しく調べていませんが、現在は、実際に若者が厄払いにかかわった回答は相当数、低くなっていると思います。
 当時の若者が見聞きした事があるとの回答の高さの原因は、まだ松原には男性42歳の厄でぜんざいを食べてもらう風習が残っていた事にもあります。現在41歳(昭和44年生まれ)の息子が中学生の時代に「○○のお父さんが厄だからぜんざいを食べに行く」と言ってよく出かけていましたが、現在中学生の孫が4人いますが、誰もぜんざいを食べに行っていません。またぜんざいを道行く人へ、食べていただく風習も最近は見ることもなくなりました。

[ぜんざいの風習事例1] 

 昭和59年採集。高見の里在住。昭和15年生まれ女性が夫の四十二の厄にて雑談

 主人がね、今年が前厄でね。本厄より前厄と後厄のほうが怖い、言うから娘のクラスの子供達に食べに来て言うて頼んだのよ。たくちゃん、ところは妹が3人もいるよって連れてきてや、って頼んだのだけど「恥ずかしい」ってよう。子供の代わりにノート持っておかぁちゃんがきたってかぁ。だい(代参)やよって、3人の分も食べてや。

 作り方ってか、夕べ(前夜)のうちに小豆を三升三合はかって、水につけといてな、おてんとうさん(太陽)が顔をだしはると1斗だけお初水をいただいて、鍋に入れとくのや。昔や言うても、昭和四十年あたりまでは、高見の総井戸のお水貰いましたわ。今は水道やけどな。そいでな(そこで)、浸けといた水を何回も何回も小豆を洗っては捨て、洗っては捨て、するねん。浸けといた水はきっちりと捨てないとアカン。夜に浸けているよってに、魔物が入ってたら、あかんよってな。魔物は夜にはいるからな。それでな、一斗の水に三升三合の小豆を入れて炊くねん。砂糖ってか。いれたらいい。けどな、小豆をなゆうーくり、ゆうーくり、ちょっとだけ塩を入れて煮ると豆の甘みがじんわりと口に残っておいしいねんよ。そやよって(それゆえに)砂糖入れるけどそれは豆の甘みを出す引き立て役や。

(皆が火の周りで食べているドラム缶を指さして)あっちで火を燃やしてるわなぁ。あの火を入れるねんや。こっちはな四寸五分の古柱を切った木を入れてるからな。火が炭になったらあっちの火を足す。煙を入れたらあかん(だめ)じっくり。豆が割れないようにな。

[事例2] 

 採集昭和60年代メモ帳より。天美、男性。

 もち米1斗の餅に小豆3升3合の厄年のぜんざいをふるまいました。

 次回から松原の人々のお話から出した厄年とその周辺を書きます。

 

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)