まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられる民話をご紹介します

 

丹南の松原と暗がりの松原  松原の民話 第110話(2010年6月)

1、丹南の松原(寺のきつねの小僧さん) 2、暗がりの松原(大阪城を退下する且元)  

旧中河内の二つの松原

 大阪には二つの宿場町、茶屋町として名高い松原があります。一つは中高野街道と竹之内街道の交差点を中心に開けた茶屋町で、大乃屋、柳屋など明治の初め頃には21軒もあった繁華街だったそうです。今は中高野街道と竹之内街道の交差点の所に図書館があり、傍に道標があります。ここから中高野街道を南下(三宅の方向)すると長尾街道と中高野街道の交差点にお茶屋がありました。こちらは阿保茶屋(あぼんじゃや)と呼ばれたお茶屋さんです。どちらも(現)近鉄電車の開通はもちろんですが、伊勢講などの講組織の衰退などで、道の機能がすたれ、現在はお茶屋の面影や繁栄した姿も消えてしまいました。

 もう一つは暗がり峠の松原です。奈良街道沿いにあります。ここに、現在は地名が変更か、そのままか調べていませんが、中河内郡英田村大字松原の地名に宿場町として繁盛していた所があったそうです。この二つの松原が且元の逸話民話でも場所をチェンジして、間違って伝承された例もあるほど、どちらも甲乙つけがたい繁栄があったと思われます。

1、丹南の松原(寺のきつねの小僧さん)

 丹南地区の民話と言えば竹之内街道民話で紹介した民話は、実在者ではなく世間話から発生した話と分類していますが「鉄砲作りのしげやん」の話は一級品と思っています。

 いくら造っても爆発してしまう鉄砲は、しげやんの技術の根本が、日本古来のはめ込み技術で製作した事に原因がありました。当時ねじ式の釘(ボルト)があることをしげやんは知らなかったのですが、その時とてつもないカルチャーショックを受けたしげやんは、外国の技術を習得して鉄砲造りを成功したという丹南の松原らしい民話があります。(岡遺跡。岡2から5丁目。鋳物師の工房跡発掘にともない堺市美原区とされていた河内鋳物師の活動範囲が松原市地域まであったことが証明された。)

 松原茶屋と呼ばれたこの岡地区5丁目は大層なにぎわいであったそうですが、神社仏閣の多い松原ですから、5丁目だけでも円正寺。泉福寺。大師堂。とすぐに名前が出てきます。どこのお寺か不明ですが、次は松原茶屋の近くにあるお寺さんのお話です。

 寺のきつねの小僧さん

 (採集日)平成元年前後。未介護保険の頃。 (採集地)旧松原保健所と老人福祉課共同事業へ岡の住人より、空き家の日を提供の場にて。 (語り手)自宅で介護をしている人達が月一回の集会所で、雑談したものを忠実に再話。 私は毎月ボランティアで参加。

 つれあい(夫)から聞いた話ですよ。私の家は(生まれた家)藤井寺です。私が嫁いだころは、ここから藤井寺まで、家らしい家はなくて、私の家もあの辺りと指さすことの出来る距離でしたが、骨休みに帰るなんて事の許されない時代でした。けれど、つれあいがやさしい人で松原の面白い話をして笑わせてくれたので、どんな時も乗り越えてきました。

 いつのことか、本当の事か、どうかわかりませんが、むかぁーし、むかぁーしですよ。岡の図書館のあたりに、むかしお茶屋さんがあったそうです。
 ある日のこと、お茶屋のおかみさんがお寺へ請求書を持ってきて「昨夜、和尚さん所の狐が小僧さんの姿でやってきて、ばらずしと稲荷ずしにサバの刺身を食べて帰った。帰るときに「私は寺のきつねやが、すまないが、明日の午後に寺へ行って食べた分の勘定を貰ってくれ」と言って帰ったから、払ってほしい」とやってきたそうです。
 和尚さんは「それはご苦労さんでした。たとえきつねであっても、この寺から道外れをした者がいたとは悲しい事です。けじめのつけ方を話し合ってくるから、一日待ってはくれまいか」と言ってその日はおかみさんも納得して帰ったそうです。 
 あくる日の朝、手拭いを鼻から耳のあたりまですっぽりと姉さんかぶりにかぶったきつねの小僧さんが夜明け前からせっせ、せっせと茶屋の内外(うちそと)の掃除と大きな声で挨拶する姿があったそうですが、きつねはおてんとうさまの輝きが嫌いらしく、日が昇り人々の動きが活発化する頃になると姿が消えていたそうです。
 それでもきつねの小僧さんの姿は十日ほど続いたそうです。村の人達は、さすがきつねといえども、寺のきつねは違うと感心し、おかみさんは、あれだけ働いてくれるなら、きつねでもいいからずうっと居てほしかったと言っていたそうです。

2、暗がりの松原民話(大阪城を退下する且元)

 暗がりの松原とは暗がり峠を越えて奈良へ向かう街道で、奈良街道と言います。現在は東大阪市になります。この辺りには、片桐且元の民話がそれなりに残っているようです。私は松原を専門としていますので、他地域の事は不勉強ですが、次のようなお話を採集しています。

 且元を頼って八人の若者が武士を志願してやってきた時、且元は「刀を振り回して、武勇を立てる時代はおわりだ。今からは自分で土地を耕し、しっかり腰を据えて学問の道を究めるがよい」といって、この地へ八軒の家を建てたので、八戸ノ里の地名がおきたと言われているところが、東大阪にあります。(語り手大阪城ボランティア仲間)暗がりの松原とはどれほどの距離か知りませんが、次のお話は有名です、「暗がりの松原」のお話です。

 且元が大阪城を後にして茨木の、自分の城へ逃げ帰る時、暗がりの松原で人質であった大野治長の子供や且元を慕う家臣と酒を酌み交わし別れを惜しんだという話があります。この松原は史実では暗がりの松原ですが丹南の松原でも語られています。これは、土木事業に優れた且元が狭山池の事業にかかわり尺八樋の考案など数々の活躍を含めて、丹南の松原を愛している人達の心が、茨木へ逃げる且元を同じ中河内でもあることから歴史よりも且元びいきを重視して、しいて間違ったお話で、伝承されたのでないかと思っています。
 河内松原の且元民話は、私の採集ノートにも入っていますが、しかし歴史的に違う事、河内松原が茨木の且元の城へ続く道ではない事は、語り手達は誰も知っていて語っていたのでないか、そのような気を持ちながら採集しました。

 

 大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)