まつばらの民話をたずねて

松原の人々の一生

今月は結婚についての言い伝えなどを紹介します。例によって、俗信や生活習慣からくる非科学的や非文化的な行動など諸々の部分などふくめて、聞き取りした内容の中にはこんな事があったのかと笑える部分もあり、残念ながら笑えない部分もあり、人権上不適切な事項も多々あるかと思いますが、生活習慣風土が作った民俗のなせるわざとしてご理解下さいますようお願いいたします。

第73回 結婚-11 (結婚生活 

  結婚式も夫の実家でするでなく、何時から何時までと決められたスケジュールで、ところてん流しのように式、披露宴と進み新婚夫妻は飛行場へ、お呼ばれの若者達は同窓会よろしく二次会へと明るい笑いを振りまき、互いの両親は精神と体力の疲れで夫婦かばい合いながら、それでも妻(母親)はどこか晴れがましくいそいそとしている姿が目に映る昨今の姿ですが、今から四半世紀足らず以前の、現在(平成21年)65歳代以上の人達が行った結婚式、結婚後の生活とそれを当然のように素直に受け入れて生活をした松原の日本民俗の姿をもう少し覗き見して見つめて欲しいと思っています。
 現代は言葉も儀礼もその他いろいろと細やかなことまで、テレビや本の発達で日本全土の儀礼が統一化したように思います。
 例えば葬儀、結婚、入学、就職等における悔やみ、祝いの金額を親ならいくら、友ならいくら包めばよいなどの数字まで示した儀礼の本はもとより、お墓参りの儀礼までが全国統一のごとく書かれています。
 松原の行基七墓参りなどは当然消える運命は近い。その土地の歴史、風俗習慣、生活形態が作るはずの儀礼が消える事を非常に残念です。なぜならば、土地の中で地縁を通して必死に生きてきた証が否定されることに哀しさをかんじています。
 『郷にいれば郷に従え』も死語になりつつある現在では、先人の心を無視し周りの先人から教わるのではなく、本で学ぶ姿を良しとすることが現在の日本民俗の形態なのかも知れませんが、今ならまだ本から学ぶのではなく事例として女性が松原の風俗習慣の中で生きた姿が残っており、聞く事が出来ることを知って頂ければ幸と思います。

 今回も引き続き平成21年7月23日と25日に聞き取りノー ト(阿保地区中心)ともう一つ別の地区(布忍地区中心)でボランティアしている高齢者の俗に言うたまり場で採集したものおよび、なんでも走り書きノートから抜粋した女性の事例です。
 ここで事例となっている人達は歴史上の人物ではなく、こうした体験を持って現在の礎を築いて生きています。

『事例』
交換嫁

昭和18年生まれ66歳。家業百姓。夫は養子で有数の大企業。就職経験無し専業主婦。

 むかしは嫁交換したよねえ。私は嫁交換で私の姉が主人の実家へ嫁いで、主人がわたしのところへきたのよ。女同士の交換と違って、それは私の母も気をつかったよォ-。
 けど主人は勤め人だったから少しは気も和らいだけど、それでもね、主人をないがしろにすることがあれば、姉がないがしろにされてもなにもいえないからね。それにね、主人より良い服を着ても、前に出るようなことがあっても、姉の家や親戚にわかるような気持ちでね。それに養子だからって言う世間の目も怖いシィ。
 今も昔も優しい人で、昔から静かで畑仕事の好きな人だからねぇ。まあ、良いようでもそれなりの気苦労はあったなぁ

終戦後の嫁

昭和6年生まれ78歳。父親は村長。結婚前は村役場勤務。

 結婚後は姑が厳しい人であったので専業主婦をして家事や婚家のしきたり、行儀、およばれで来た人達へ接待の仕方、それに畑な。鍬の持ち方から教えてもらいましたんや。
 嫁の休みは盆と正月言うけど、本当にそのとおりで夏に墓参りと正月の藪入りだけ身体を休ませてもらいました。けど墓参りは朝食もとらずに出て昼には母が御弁当を持ってきてくれたでねぇ、いっしょにお墓でいただいて、そのあしで帰りました。正月の藪入りは一晩実家で休ませてもらいました。母と一緒寝ずにいろいろ話しました。「明日にこたえる(この疲れが明日に残ってしんどいので)からもう寝なさい」といいながら時間が惜しくって話し続けました。
 昔はしんどいこと、親が心配することは絶対口にせず、誰も皆「可愛がってもらっています」って言いましたわ。
 私の年齢の、女の人は結婚適齢期がちょうど戦争の真っ最中でね、日本に若い男性がいなかったの。だから戦争で帰ってきた人と結婚することになったのですわ。主人とは歳が離れていたので子供を可愛がるように私を大切にして頂きました。
 それでね今でこそ笑い話ですけどね、夜になって、私も姑から言われた夜なべ仕事も終わって、さあ寝ましょうと寝間着に着替えようとすると、見計らったように、障子の向こうで「もうお床に就きましたか。ちょっとだけですが、明日はお豆ご飯を炊きたいのですがねえ、ちょっと台所へ来てください」って言やはりますねん。
 台所へ行ってみると枡の中に駄目な豆と食べられる豆がいっしょになって置いてあるのです。それをきれいに食べられるのと駄目なのとに分けてからお床へ向かうと主人は高いびきですわ。そんなことがよくありました。
 それで、子が出来ない。子が出来ないって。歳を取ってるのでと言われたけど、姑が足腰がいたくなって寝たり起きたりとなり、私が姑の手足となって世話をするようになり、私の時間で生きていけられるようになったとたんに、息子ができました。
 まあまあすんだことですが、笑い話ですが、そんなことがありました。

終戦後嫁に行き遅れた女性

大正3年生まれ95歳。寅年生まれ。取り嫁取り婿(息子を養子に迎え嫁を取る)。現在キリスト系ホーム入所。90歳で孫へ自分のマンションを渡し、手荷物のみで入所の苦労人。

 私は中国開拓団での引き揚げ者です。日本が負けて沢山荷物をせたろうて(背負って)逃げました。荷物を一つ捨て二つ捨てして終いには自分が歩くだけで一生懸命で、水筒だけが命の絆のようになって、日本に着きました。
 右と左が違う高さの下駄はいて、ぼろをまとっての再出発でした。キリストの病院で人の嫌がることを進んでしました。結婚もせず夢中で一生懸命働いて一人前の生活になったと思ったら、ここでこうして生きています。

 

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)