101.西阿保村の保田家住宅

保田敬三家住宅

保田敬三家住宅(阿保5丁目) 
北側から写す。
18世紀中期以前の建築。
明治時代に、南側の2階などが増築された。

阿保親王の名をいただき在原仲平を祖とする豪農

 阿保5丁目の阿保神社や西徳寺あたりは、今も古い町並みが残っており、入り組んだ路地が曲がりくねっています。その社寺の西側に、保田敬三さん宅があります。
 阿保は、江戸時代には東阿保村と西阿保村に分かれていましたが、保田家は西阿保村の庄屋層の家柄でした。東西阿保村は、明治8年(1875)に合併して阿保村になりました。
 現在の保田家は、土間から居室に入る踏み台として使われていた板裏に「文化元年二月、大工□、六十二歳」と書かれた墨書が残っていることや、古材の建築手法から18世紀中期を降らない築造とみられます。文化元年(1804)に増改築されたのでしょう。 現状は桁行十四間、梁行五間半という平入瓦葺(元は茅葺)の大きな構えです。市域では、現存するものとして、17世紀前半の天美我堂7丁目の西川宏家住宅(「歴史ウォーク」99)に次ぐ古さです。
 保田家には、江戸時代中頃に書かれた家伝の掛軸が残っています。これは、享保20年(1735)に『河内志』を著した儒学者の並河誠所の門人である竜泉斎仙鳳が書いたものです。
 阿保の地名は、平安時代初期に平城天皇の皇子である阿保親王が丹比郡の当地に住んでおこったことから書き始めています(「歴史ウォーク」23)。
 つづいて、長和3年(1014)、阿保親王の子孫という在原信之の子である幸松磨は阿保の稚児ヶ池に入水して、母の眼病平癒を祈りましたが(「歴史ウォーク」54)、この幸松磨は保田氏の先祖であると伝えています。六歌仙で有名な在原業平は親王の五男ですが、保田氏は業平の兄の仲平を初祖としています。
 最後に、保田氏は阿保親王の保の字をいただき、在原氏から改名して代々、阿保村に住んだとしめくくっています。
 一方、同家の過去帳では戦国時代の永禄4年(1561)に保田家を興こし、天正17年(1589)に亡くなった保田惣左衛門を初代としています。のち、江戸時代の元和5年(1619)に没した二代の仁兵衛より幕末に至るまで、保田家当主の多くは代々、仁兵衛を名のりました。
 保田氏が村で重きをなしたことは、海泉池の東に広がる阿保墓地の入口左側にある同家の墓所からもうかがえます。18世紀前半の享保や寛延年間の墓に混って、ひときわ大きい天保10年(1839)11月の保田市右衛門墓や嘉永5年(1852)2月の保田仁兵衛墓の台石に「百姓中」の文字が彫られています。西阿保村の農民たちが保田氏の功績をたたえて建立したのでしょう。
 ちなみに、最後の松原町長で、昭和30年の市制発足とともに初代松原市長となった保田俊一郎は、保田家二十一代の当主でした。