113.一津屋道場から法泉寺へ

亮泉亮楽

了観似泉

法泉寺住職画像(一津屋1丁目、法泉寺蔵) 
右上が亮楽、右下が似泉。
一幅の中に、亮楽を上、似泉を下に配して二画像を描く。
左上は亮泉、左下は了観。
他にも、僧侶名を記さないが、
歴代住職と思われる2人を描いた二幅も残されている。

性應寺八代了尊が巡廻一津屋村与兵衛の信仰

 富田林市富田林町の旧寺内町は、大阪府内で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この宗教自治都市は、戦国時代に浄土真宗の興正寺別院が核となって形成されたものです。
 江戸時代、興正寺別院が所属していた京都の興正寺は、多くの末寺をかかえていました。そのうち、和歌山の性應寺は興正寺下の中本山でした。前号で紹介したように、一津屋1丁目の法泉寺も興正寺-性應寺下に組織された末寺でした。
 江戸時代初期の元和5年(1619)9月、性應寺の八代住職である了尊は、大坂や河内地方を巡廻しました。その折、一津屋にも立ち寄ったことが、彼の日記を収めた「西光寺古記」(西本願寺蔵)に見られます。
 当時、了尊はのちに本願寺十三世となる良如の教育役として京都に住していました。了尊は9月5日、平野(大阪市)を経て、一津屋の与兵衛宅の内仏に参り、2カ月前に亡くなった与兵衛の父、了西の忌日が7日であったので、お勤めもしました。与兵衛宅が性應寺系の道場であったことから、了尊が参ったのでしょう。同宅が法泉寺の前身であったと考えられます。この時期には法泉寺の寺号は与えられていませんが、寺では了西を二代住職と伝えています。
 6日には、与兵衛は了尊に従って堺の日置荘・南野田、羽曳野の丹下(現恵我之荘)の各道場へ参っています。了西は、この丹下道場を亡くなるまで、一津屋道場とともに兼務していました。7日も了尊らは、羽曳野の伊賀や藤井寺の野中・林の道場へ参りました。翌日の8日も了尊は、道明寺や道明寺天満宮、誉田八幡宮を見物し、古市(羽曳野市)の真蓮寺に一泊しました。9日は羽曳野の西浦や蔵之内、太子町春日の道場を巡っています。
 後のことですが、安永6年(1777)に亡くなった法泉寺十代住職の似泉は、蔵之内の道場を前身とする光福寺から、九代住職の亮楽の養子となった人物です。法泉寺には、この似泉の画像が、亮楽(宝暦6年、1756年没)、十一代亮泉(寛政7年、1795年没)、十二代了観(天保8年、1837年没)などの画像とともに残されています。
 ところで、似泉が住職であったと考えられる安永3年(1774)11月27日、一通の「願上」の書付が、一津屋村を治めていた丹南藩主高木氏を通じて大坂寺社奉行所へ提出されました。
 文書は、大破した法泉寺本堂などの修理を願ったものですが、書き出しには「高木主水正殿領内 河州丹北郡一津屋村 西本願寺流興正寺下自庵 法泉寺」とあり、性應寺の名は見えません。似泉のころまでには、性應寺との末寺関係は切れて、興正寺の直末に組み入れられていったと思われます。
 次号では、この「願上」書をあらためて取り上げます。