119.豪農・義民・近衛兵の墓

 吉村平右衛門墓今田忠右衛門墓福島彦三郎墓吉村為造墓

左から吉村平右衛門、今田忠右衛門、福島彦三郎、
吉村為造の墓(田井城6丁目・田井城墓地) 
平右衛門・忠右衛門墓は墓地中央にある。
彦三郎・為造墓は現在、墓地入口にあるが、
もともと前者は迎え地蔵西側、
後者は吉村家墓所に祀られていた。

陽雲寺・善宗寺檀信徒の歴史をきざむ田井城墓地

 田井城6丁目の田井城墓地は、地元の浄土真宗陽雲寺や日蓮宗善宗寺(「歴史ウォーク」117・118)の檀信徒らの墓所です。
 陽雲寺には、本堂が天保12年(1841)に再建されたことを記す棟札が残っていますが、そこには檀家であった普請奉行の吉村平右衛門と今田忠右衛門の名前が書かれていました。二人は、田井城村の豪農ですが、今もその墓が吉村良之介さんと今田忠弘さん宅の墓域に祀られています。
 吉村平右衛門は安政6年(1859)、82歳で亡くなりました。文久元年(1861)、子の平次は平右衛門の法名である釋善誓などを刻して「先祖代々霊」を建てました。平次も明治5年(1872)に没し、のちに田井城村の戸長となる亀太郎が継ぎますが、明治7年(1874)、村の人々によって、「村中」「俗名吉村平次墳」が建てられました。
 亀太郎の後は、五男良造が当主となりますが、三男の為造は明治天皇の護衛に就く近衛兵でした。しかし、日清戦争に従い、明治28年(1895)6月、23歳で戦病死しました。村では一般徴兵と違い、近衛兵という名誉に浴した為造をたたえ、「近衛歩兵吉村為造君之碑」「明治二十九年四月建之」の墓碑を造立しています。
 一方、今田忠右衛門は陽雲寺本堂が再建された3年後の天保15年(1844)、前年に長男の庄左衛門を30歳で失ったことから、「先祖代々墓」を建てました。今田家では、文政10年(1813)と文政12年、「今忠」と記した「釋了意、釋尼妙了」の墓がありましたが、忠右衛門は新たに先祖の供養をしたのでした。忠右衛門は明治7年、86歳で亡くなり、「釋了善墳墓」がつくられました。
 なお、同家は大阪の著名な儒学者藤沢南岳(「歴史ウォーク」87・100)と交わりを持ち、大正3年(1914)、当主幾三郎に為書した南岳七十三歳筆の「稼穡務」の書が残っています。これは、幾三郎の兄の慶太郎が南岳の自宅がある大阪・平野町(中央区)の塩田家へ養子に入った関係もあるかもしれません。
 善宗寺の檀家では、明治9年(1876)の福島彦三郎(思厚院恵誠日道信士)墓が人々によって特別な思いを持たれました。
 田井城水利組合と墓地管理委員会が建てた顕彰碑(平成15年)によると、「彦三郎は明治九年八月一日、野田の堰(堺市東区丈六)で村の代表として番水監視をしていたところ、付近の農民が水を盗もうと堰を崩しはじめた。彦三郎はこれを阻止しようとしたが、鍬などで殴打され、亡くなった。三十有余歳であった」と記しています。農民の生命である用水を守ろうとした彦三郎を「義社中」の組織をつくってたたえています。
 史料に残るこれらの人々の一面が浄土真宗や日蓮宗の信仰を通じて、墓石から偲ばれるのです